さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1999年1月〜1999年3月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●閑話休題

何といっても、「世紀末」、99年である。99といえば、例の「アンゴルモアの大王」(でしたっけ?)である。7月だか8月だか知らないが、早く来て欲しいものだ。
そのせいか、ここしばらくノストラダムス関連の本や記事をよく見掛ける。「トンデモ本の世界」で山ほど紹介されている、五島某はじめ、いろんな人が何を言ってても、まあいいけど、でも、ちょっと信じられんのが講談社の姿勢だな。

「週刊少年マガジン」の「MMR」はいうまでもないけど、もっと噴飯ものなのは、「週刊現代」だ。
4月10日号(3月29日発売)に、「世界の権威10人が語る、ノストラダムスの大予言 最後の真実」というタイトルで「1999年7の月の恐怖の大王の正体は何か」とか「あと3ヶ月、あなたは生き残れるか」とかいった、煽りの記事が載っていた。確か、数ヶ月まえの週刊現代にも、同じような特集をやっていたので、もう確信的なんだろうな。
で、その記事内容というのが、ジャーナリズムとはほど遠い(週刊現代がジャーナリズムかどうか、という議論は、ここでは置いておこう)。

その記事中には、「恐怖の大王」の正体を解説する「世界の権威」がコメントを寄せている。そのメンメンというのは、例えば「元気象庁技官S(記事中は実名)氏」「日本学術探検協会会長T(同)氏」「サイエンスライターA(同)氏」とかいったように、それらしい肩書きをつけられて、知らない人が読めば、何か権威がある人が言っているように思える仕組みになっているのだ。
しかし、「トンデモ本の世界」シリーズの1冊でも読めばすぐわかるが、このメンメンが実に「トンデモ」な人達であることについては、何も触れられていない。
たとえば、件の元気象庁技官のS氏は、これまで何度も何度も「X年X月X日、富士山が大噴火を起こす」「X年X月X日、関東に大地震が発生する」などと予言し、さんざん煽ってきた人物である。もちろん、彼の「予言」は、ひとつも当たったことがない。
また、T会長が率いる学術探検協会は、太古、日本が世界中を支配していたと主張するグループである。
サイエンスライターのA氏は、たとえば1990年の著作で「惑星ヤハウェイの存在を、NASAははやくて3年以内、遅くても5年以内には必ず公表せざるを得ないことを(中略)世の中に明言しておく」などと数々の大見得をきってきた人である。しかし、もう1999年なんだけどなぁ。ちなみに「惑星ヤハウェイ」とは、地球と同じ軌道上にあり、ちょうど地球の正反対の場所(つまり太陽に隠れて見えないというわけ)に存在する惑星のことらしい。

彼らがどんな主張をしようが、それは自由だし、彼らの主張を信じる信じないは、人それぞれの自由だ。だから、彼らが何を書こうと、誰がその本を買って信じようと、私はとやかく言うつもりは、さらさらない。
だが、週刊現代は、前述したような事実に蓋をしたまま、いかにも「識者」の意見として提示してくる。講談社が彼らのしてきたことを知らないはずがない。要するに「確信犯」なのだ。

もちろん奇麗事を言うつもりはない。週刊誌といえども商売モノだから、売れてはじめてナンボである。結局、そのためなら、ある程度、ショーモナイ「ヨタ記事」があってもしょうがないのかもしれない。でも、何かイヤだな、週刊現代の姿勢は。
週刊現代は、さんざん「政治や経済の裏面を探る」というようなスタンスで記事を掲載しているが、そんな記事も全て、単なる「ヨタ記事」でしかかいのか、と思ってしまう(ほらほら、そこの人、「週刊誌の内容なんて、そりゃヨタ記事に決まってるやん!」などとツッコミ入れないように)。
あるいは、ページが余ったために「どうせ誰も信じないだろう」なんて感じで、単なる「埋め草」として入れただけだとするなら、それこそ読者をバカにした態度でしかない。それなら広告を入れておくほうが、よっぽどマシである。
仮に百歩譲って、我々は「トンデモない」と思っていることだが、編集者(編集長)は、マジで信じていて、本心から「警告」として記事にしていたとしよう。しかし、そういう場合であっても、ちゃんと反論というか、反対意見も掲載せず、批判精神を持って記事を読者に提供せず、ただ一方的な視点からのみの意見を掲載することは、一般雑誌としては間違っているとしか言えない。

現在は、まだまだ昏迷が続く時代だ。不況は底を打った観があるものの、依然、不透明だし、国際情勢も不安感・危機感を抱かせるものがある。本当にひょっとしたらこの夏ぐらい、何かあるかもしれない。
しかし、それはノストラダムスとは、何の関係もないことだ。綿々と続く歴史の流れから、今のような状況に陥っただけであるし、要するに「必然」なのである。数百年前の「予言」に入り込む隙間はない。

講談社って、「現代新書」があったり「学術文庫」があったり「メチエ」があったりと、結構、買うんだけどなぁ・・・それにしても、野間社長、大丈夫ですかぁ。

●この期間、読んだ本
「トンデモ ノストラダムス本の世界」山本 弘
「当たった予言、外れた予言」ジョン・マローン/古賀林幸訳
「死と生きる〜獄中哲学対話」池田晶子/陸田真志
「戦国合戦事典」小和田哲男

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「トンデモ ノストラダムス本の世界」山本 弘・洋泉社
(99年3月5日〜3月8日)

 上記「閑話休題」を受けたカタチで紹介しておく。著者は「と学会会長」。つまり一連の「トンデモ本の世界」シリーズの著編者である。

 ちなみに私は「トンデモ本の世界」シリーズが好きで、これで計、4冊目。女房から「また、トンデモ?」などと嫌味を言われながら、結構、嬉々として読み漁っている。

 これは数ある「トンデモ本」の中でも、特にノストラダムスものばかりを集めたもの。1999年だから、まあ、「と学会」と洋泉社も時宜を得たいい商売をしているものだ。ところで「と学会」と洋泉社の最大の功績は、「トンデモ本」というコンセプトを知らしめたことと、「トンデモ説」に対するちゃんとした反論を、エンターテインメントとして世の中に提示した、ということだろうか。

 いままで、まっとうな学者が一番ジレンマを感じていたのは、「トンデモ本」が圧倒的に売れるのに対し、それに反論した本が、どうしても学術書的になってしまい、あまり売れない、ということだったと思う。そのジレンマを乗り越えた、「と学会」の功績は大きいと思う。別にガチガチの否定論者のように「トンデモ説を封じ込めろ」というわけではないが、反論やカウンターオピニオンが、ちゃんと同じ土俵の上に上がらない議論は、空しいと思うからだ。その上で、「やはりそれでも、私はこの節を信じる」といわれたら、まあ、そうすればいいんだから。

 話を前掲書に戻す。

 ここでハッキリわかるのが、ノストラダムスの予言を「解読した」という人が、実にいっぱいいて、みんながみんな「自分の解読こそ正しい」と主張していて、しかも、それぞれの「解読内容」が、ぜんぜん違っているということだ。著者の山本氏は、自分の思い込み次第で、どんな解読の仕方もできるといっているし、また、どんなものでも「予言」にでき「そのうち「ドラエモンの大予言」や「PUFFYの大予言」なども出そうである」てなことを書いているが、まさにその通りだと思う。私なんぞ、真剣に「ピンク・フロイドの大予言」なんて書こうかな、と思ったほどである。「狂気( The Dark Side Of The Moon )」収録の「マネー( Money )」と次の曲「アス・アンド・ゼム( Us And Them )」は、まさにバブル景気とその崩壊を予言したものであるっ!!!なんてね(別にバブル崩壊でも、世界恐慌でも、高度経済成長とオイルショックでも何でもいいんだけど。同じような歴史は何度もあるわけだし)。

 要するに、何でも予言書になるのだ。

 本書は、さまざまなノストラダムス本で行われている予言の比較、そしてすでに「予定」が過ぎてしまった予言(多くのノストラダムス本解読者によれば、もうすでに第3次世界大戦が、ソ連(爆笑)等によって起こされているはずなんだがな)をカタログ的に並べてみせることで、それら予言の「ナンセンス」さを指摘するものである。

 講談社をはじめ、「7の月」が近づくと、もっといろいろ「煽り」が出てきそうである。ひょっとすると、売らんがための一方的な情報ばかりが氾濫するかもしれない(それが恐怖の大王の正体だったりして!)。そういう時代に備えるには、ちょうどいいテキストだろう。

 それにして、山本氏の「トンデモ本」、一度見たような表現とかネタが増えてきているな。そろそろネタ切れか?

 てなところで、99年最初の読書日記は、次も「予言」関係である。

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「当たった予言、外れた予言」ジョン・マローン/古賀林幸訳・文春文庫
(99年2月21日〜2月25日)

 こちらはジュール・ベルヌをはじめ、エジソンやら最近ではビル・ゲイツなど、その道で功なり名を遂げた人々が、何かの拍子に言ったり書いたりした未来への言及が、実際その後、どうなったかを検証する本である。

 だいたい、ここ150年間ほどの「予言」がまとめられている。

 実に興味深いものがある。たとえばベルヌが「20世紀のパリ」(これは数年前に日本語訳が出たが、極めて興味深い内容。19世紀半ばのベルヌが、百年後、つまり1960年のパリを想像して創造した小説である)で、ファクスの普及を「予言」していたり、とか、あのエジソンが、「蓄音機など役に立たない」と言っていたなどなど。

 もちろん、「これが予言かぁ?」というようなものもある。例えばアインシュタインが子供の頃のギリシア語教師が、アインシュタインに向かって、「君は大物になれそうじゃないね」と言った話とか。まあ、これで件のギリシア語教師が、予言者ばかりでなく教師失格の烙印を押されないように祈るばかりである。

 我々を取り巻く今の環境は、マスメディアなどで様々な「予言」が山ほど繰り出されている。少し前だが、ある大臣が「不況は底を打ったように思う」などと言ったのも、立派な「予言」になるのだろう。

 ここで思うのは、「予言」を支える根拠というものが、本当は実に脆弱なものでしかない、ということだろう。

20世紀から21世紀にかけて生きようとしている我々は、ある意味で科学の進歩が必然であるような盲信さえ持っている。今の文明を基本として、様々な未来も想像できるだろう。

 たとえば、電話はいずれテレビ電話(今あるようなショボイのじゃなくて)になるだろうし、テレビは壁掛け式立体テレビになるかもしれないし、センサーによって絶対衝突しない自動車だって、できても不思議ではないと思っている。

 そんな時代に生きているからこその「不感症」というものがあると思う。それは先にいった、「根拠の脆弱さ」と同じ意味での「進歩の脆弱さ」について、なかなかわからなかくなっている、ということだ。

 この本を読んで、19世紀のアメリカの大統領が「電話機なんてオモチャにしかならんだろう」と発言したことを、現在に生きる我々は、嘲笑うこともできるだろうし、そんな「先見の明のない人が、一国の大統領を務めていたなんて」、と吐き棄てるように言うこともできるだろう。

 だが、彼を誰も面白がることはできないのだ。未来など予言できないからだ。我々が「先見の明がない」と人を面白がれるほど、我々は未来のことをわかれるはずはない。むしろ未来は予測不可能だから、希望に燃えているのではないか。

 我々が未来の絵図を頭で描けるのは「今の科学の進歩なら」という大前提があってのことだ。しかし、実を言うと、「科学の進歩」なんて、まだまだしれた物とも言える。

 今我々は、人工衛星まで使って天気を予測しているけど、外れることも多々ある。ずぶ濡れになりながら「晴れると天気予報で言っていたのに」とボヤく人と、「電話なんてオモチャ」という大統領氏やギリシア語教師と、実はさして違いはない。

 先日、スタンリー・キューブリックが亡くなったので、それを偲んで久しぶりに「2001年宇宙の旅」を見た。制作は今から約30年前である。そして実際の2001年は、もう目と鼻の先だ。

 宇宙に浮かぶ巨大なステーション、パンナム(爆笑)の連絡ロケット、大規模な月面基地、木星まで人工冬眠して行ける技術、そして意志を持ち言葉を話すコンピューター・・・

 今、実現しているものは何ひとつない。そういう意味で言えば、キューブリックとアーサーC.クラークの「予言」は外れたといっていいのかもしれない。

 30年前の人々は、2001年には、ここまで行けると思っていたのだろうか。確かに、アポロ11号が当時、初めて月面に人類を送り込んで、多くの人々は、じきに人類はどんな星でも行けるようになるんだ、と感じたのかもしれない。

 だが、99年に生きる我々は、科学や技術の進歩がいつも上り坂を猛スピードで駆け上がってばかりはいない、ということに気づき始めているし、第一、現代の技術が最大の関心を払っている分野は、たぶん宇宙ではなく「環境」なんだろう。

 夢を見る、つまり未来への希望をかける分野が変わってきているのだ。そして、この「分野の変化」は、たぶん、多くの人にとって30年前には思いもよらなかったことであり、おそらく、今から30年先に、科学技術は科学技術として進歩し続ける(スピードはどうであろうが)としても、どの分野へ最大の関心が払われているかは、たぶん、予測はつかないだろう。

 でも、予測がつかなくたっていいじゃないか、と思う。

 もう一度、話を「2001年宇宙の旅」に戻そう。おそらく我々は、たとえ2001年が過ぎたとしても、あの映画を感動を持って見ているはずである。おそらく、言葉を話すコンピューターなぞ、もう百年たってもできないだろうが、だからこそあの映画は、「未来」と「宇宙」という、共に人間にとっての未知なる領域への野心と恐怖を掻き立てる作品として、我々の心を捉え続けるだろう。

 そういうものの前では、「予言」などたいしたものではない。現在を生きる中で出会う感動や想いに浸ることは、たぶん、「予言」に右往左往させられるより、もっと大事なことだから。

 繰り返していうが、未来は予測不可能である。だからこそ希望に余地が残されているのだ。

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「死と生きる〜獄中哲学対話」池田晶子/陸田真志・新潮社
(99年4月5日〜継続中)

 貴重な本である。これは哲学者・池田さんと、強盗殺人罪などで死刑囚(控訴中)の陸田さんとの往復書簡をまとめたものである。「新潮45」に連載されていたそうだが(99年4月5日現在も連載中)、私は連載中には読んでいない。

 陸田さんは、逮捕される以前、そうとうな「ワル」であったらしい。だが、逮捕され、拘留されるうちに、自分と向き合い以前にはなかったような考え方を持つに至ったのだという。

 死刑囚になったことで、目覚め・・・というと、ついつい永山則夫を思い出す。ただ、永山の場合、自分の罪の原因を「貧困」ひいては「社会」にあるとし、その結果、自分の法廷闘争と、社会変革(革命)と、死刑廃止運動が、ちょっとゴチャマゼになりすぎた感じがあって、そこに、実は私がもうひとつ、永山に感情移入というか賛同できない部分があった。

 それとは変わって、陸田さんは、自分なりの方法、思索で「真理(イデア)」を見つけようとし、その結論として全てを受け入れようとする。一審で死刑が確定すれば、それを受け入れようとする(ちなみに控訴中なのは、死刑が確定すると肉親以外と連絡が取れなくなるため、池田さんや新潮社の編集が、なんとか説得し、控訴に持ち込んだそうである)。

 それにしても、「思索」がここまで至るとは。池田さんはプロの「哲学者」であるが、陸田さんからの書簡で述べられる内容は、プロの哲学者に決して劣るどころか、むしろ上回るほどのものがある。個々の主張については、私には「う〜ん、どうかな」という部分もあるにはあったが(到達点が厳しすぎる。ヤワな考えかもしれんが、哲学や思想には「一般化」も抜けてはいけないと思う。でないと、いかに立派な考えであっても、単なるマスターベーションに過ぎなくなるだろう。たぶん、陸田さんは、それはそれでいいと言うだろうが)、問題の掘り下げ方、本質を突いた論点は、傾聴に値するものだ。

 とりあえず、今月はここまで。何せ読んでいる最中なもので。でも、読みかけただけなのに、ここで紹介したかった。それだけ凄い本だということで、ご理解願いたい。また次回、詳細を述べる。

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「戦国合戦事典」小和田哲男・PHP文庫
(99年3月18日〜3月26日)

 「小和田」さんといえば、国連大使で皇太子妃のお父上の方が有名だろうが、こちらの小和田さんも、その道では知る人ぞ知る、という方。NHK大河ドラマで戦国時代が舞台のものは、たいてい時代考証を務めてられるし、あるいは学研とかの「歴史シリーズ・ムック」などでは監修者、著者として何度も目にする方である。確か静岡大学の教授のはず。

 この文庫は、タイトルを見てわかる通り「合戦事典」である。「事典」というのが凄い。戦国時代に起こった合戦を、大小を問わず網羅しているのだ。

 小和田さんもはじめに書いている通り、現代人の興味というのは、どうしても「関ヶ原」とか「川中島」「桶狭間」といった派手な、あるいは天下取りを左右したような超重要な戦いのみに注目が集まりがちである。しかし、「戦国」という名称に違わず、この時代は国内のあらゆる場所で、合戦が行われていた。歴史として語り継がれることはなくとも、その時その時代においては、たかが局地戦であろうが、非常に重要な合戦もあったのである。当たり前といえば極めて当たり前なんだろうけど、そういうものを改めてわからせてくれる書籍である。

 本書の構成も、合戦に至る経緯、合戦の状況、合戦後の影響などをわかりやすく説き、「事典」という名に恥じない内容である。

 関西人の私にとっては、東北や九州などで起こった合戦は、土地感もなくなじみが薄いので、どうしても飛ばし読みしてしまうが、これは手元にいつも置いておいて、何かの時に読む、という使い方がよいだろう。重宝しそうな、そしてこれから長く付き合えそうな本だ。

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(C) 1998 Takashi Tanei, office MAY