さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1999年1月〜1999年3月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●閑話休題

この「さんぽ人の読書日記」は、「3ヶ月に1度」と書いてある。従って、まともに連載しておれば、年に4回、掲示していけるわけである。
実際、バックナンバーをご覧頂けばわかるが、この「読書日記」は、毎年、3月・6月・9月・12月に更新されている。しかし、最近、どうも延び気味になってしまった。
先々号は、実は4ヶ月分であったし、先号は3ヶ月分であったものの、掲載自体は4月に入ってしまった。
で、イレギュラーではあるが、今回は「4月、5月の2ヶ月間に読んだ本」ということにしておいて、帳尻を合わすことにする。
幸い、今月はゴールデンウィークもあって、多少、本に噛り付く時間があったのと、なかなか良い本に巡り会えたということもある(中には、噴飯ものの本もあるけど・・・)。とりあえずは、どうぞ。

●この期間、読んだ本
「世界人名ものがたり」梅田 修
「東と西の語る日本史」網野善彦
逆転の歴史物語」歴史の謎を探る会

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「世界人名ものがたり」梅田 修・講談社現代新書
(99年4月30日〜5月2日)

 さんぽ人こと私の名前は「高志」という。親がどんな思いを込めて私に命名したかは、この漢字を見れば一目瞭然だろう。「高い志を持った人物になって欲しい」という願いだ。う〜ん、志が高くても現実が追いつかないとなぁ・・・。

 まあ、そんな話はいいとして、名前はそれぞれに意味を持つものである。「音の響き」で付けられることも多いだろうが、だからといってどんな字でもいいというわけでもなかろう。表意文字である漢字の場合はなおさらだ。誰しも音にどんな漢字をあてるか、結構、悩んだ親は多いはずである。私の「高志」も、「隆」でも「貴志」でもない、この漢字だからこその意図が、私の親にはあったのである。

 前置きは長くなったが、この本は外国の名前がどんな意味を持つかを、詳しく説明してくれている。

 英語圏で多い男子名のジョンJohnが、聖書の「ヨハネ」に由来する(フランスのジャン、イタリアのジョバンニ、ドイツのヨハン、ロシアのイワンもそう)のは、だいだいの人が知っているだろう。しかし、その「ヨハネ」がどんな意味を持つのかということを手軽に教えてくれる本は、案外、なかったのである(私の知る限り)。

 本書を読めば答えは書いてあるが、一応、ここでも書いておこう。、ヨハネはヘブライ語でYohananといい、Yohananとは「Yo(神)」と「hanan(恵み深い)」がひとつになったもので、「神は恵み深きかな」という意味らしい。 同様にイエス(ヘブライ語でYeshua)は、「神(Ye)は救い(shua)かな」という意味で、今でこそ恐れ多くてジーザスなんて付ける人はいないだろうが、当時はごく一般的に使われた名前だそうだ。

 ついでに言っておくと、「Yo」も「Ye」も、キリスト教、ユダヤ教の絶対神「YHWH(そもそも子音ばかりで発音できないようになっている。ヤーウエとかエホバというのは、後にいろいろ解釈されてできた発音)」に由来する。

 このような名前の語源はもちろん、民族的な違いによる読み解きも面白い。

 映画で有名な「シェーン」は、Johnのアイルランド系表記に由来するそうで、著者はエンディングで去って行くシェーンの後ろ姿に、「ポテト飢饉」から逃れ新大陸に渡った、放浪するアイルランド人の悲しさを見て取る。

 この本ではなく別の本(映画宝島)で読んだのだが、アメリカでは、なぜか警察とか消防署にアイルランド系が多いらしい。そう思って映画などを見ると、確かに、ジョン・ウェイン主演の刑事もの「McQ」の「Mc」はアイルランド系に多い名前である。

 「ダイハード」シリーズでブルース・ウィルスが演じた主役の刑事は「ジョン・マクレーン」で、やはり明らかにアイルランド系とわかる姓になっていた。

 反対に、「刑事コロンボ」の「コロンボ」はイタリア系の姓であり、そういう設定からして、刑事としての特異な感じを演出させていたのだろう。今思い出すと、犯人がコロンボの名前を聞いて「イタリア系? めずらしいな」と言っていたシーンがあったような気がする。アメリカ人にはすぐわかることなんだろう。

 昔よく「訛りは国の手形」といわれたが(今や死語?)、名前も国、というかその人に連なる人間の営みの歴史の「手形」なのだということが、よくわかる。

 「名前の語源がわかって、どうなる?」という声もあるだろうが、ちょとした「雑学」として読むには最適の本だし、それぞれの名前に込められた思いや歴史に思いを馳せることは、ちっとも無駄なことではないと思う。

 パリのルーブル美術館に行ったことがある方なら、「サモトラケのニケ」像を見たことであろうが、ニケは勝利の女神である。ニケに、「人々、兵隊」という意味の「laos」が付いて、ニコラス(ニクラウス)、つまり「勝利する者」という名前の元になったそうだが、もっと単刀直入にニケの名前を名乗るワールドワイドな企業もある。Nike(ナイキ)である。

 少しでも「縁起のよい」名前を付けようとする心---親心ばかりではなく、過酷なビジネスの世界でも---は、今でも変わらない。

 人間って、やっぱりいいな。

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「東と西の語る日本史」網野善彦・講談社学術文庫
(99年5月1日〜5月10日)

 よく日本人の気質を表すのに「島国根性」などといわれることがある。私はかねがね、「島国根性」とは別の言い方をすれば「国境感覚の欠如」ではないかと、思っていた。「海」という自然の存在がそのまま、国としての境界線となる日本では、「国境」という「人工物」の存在の理不尽さが、おそらくわかりにくいのだ。

 この「国境感覚の欠如」ゆえに、昔、あるおエライさんのように「日本は単一民族国家」などという放言ができてしまうのである。放言するしないは別として、心の中では「日本は単一民族国家」だと思っている人は、案外、多いのではないか。

 しかし「国家」という存在(あるいは概念)は、決して自然に生成してきたものではなく、きわめて人工的な存在である。幸か不幸か、多くの日本人は、そのことに「不感症」気味になっていると思う。

 ここ数年来、ユーゴスラビア連邦が内乱状態に陥り、「モザイク国家」としての危機に瀕している。日本人にはピンと来ない話題かもしれないが、実は日本もそんなにお気楽でいいのか、というのを、この本は実に的確に教えてくれるのである。

 東日本と西日本、微妙な文化の違いがある。網野さんは、我々が思っている以上に、西日本と朝鮮半島の差は少なく、西日本と東日本の差は大きい、という。考えれば、たまたま、それが大きな軋轢を生まずに、ここまで来ただけなのかもしれない。たとえば、私は、こんな習慣を思い出す。

 西日本、というか私の生まれた関西では、葬式の際には「しきび」を飾る。関東では「花輪」である。純粋関西人の私の親に、「葬式の時には花輪を出したる」と言ったら、きっと「親の死んだのが、そんなに目出度いのか」と怒り出すことだろう。今まで日本の権力者が、「日本の葬式は花輪だけにする」なんてバカな法律を出さなかったのは、幸いなことだ。

 バカげた例というかもしれないが、ひとつ間違えば、日本だって葬式の花輪で、内乱が起こっていたかもしれない。なぜなら、上記の例はまさに「宗教問題」であり、「宗教問題」が今どれだけの紛争を生み出しているか、ということを考えれば、あながち、バカげた例ということだけでは済ませられないのだ。そして、本当の「島国根性」というか、日本人の不感症というのは、たぶん、葬式の花輪でさえも、内乱や紛争のタネになる、ということに気づきにくいことにあるのではないか、と思う。

 そんな、いろんな思いを持たせてくれる、好著。そして、この本は単に、単一の文化だと思われている日本が、実は地域によって大きな文化的差異を持っているということを知るだけではなく、世界には、それぞれ異なった文化や習俗があり、しかし、そんなことにはお構いなしに、人工的な国境というものがあり、国家というのは、その国境によって成り立っているのだ、ということまで、教えてくれる本なのである。

 絶対に、読んでおきたい本。

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「逆転の歴史物語」歴史の謎を探る会編・KAWADE夢文庫
(99年4月5日〜継続中)

(99年5月18日〜19日)
 河出書房新社のKAWADE夢文庫って、どれぐらいの年齢層をターゲットにしているのか、よくわからん文庫シリーズだなぁ。巻末のシリーズ目録を見ていても、何かもうひとつ、ピンとこない。どうも河出書房がカッパブックスやNONブックスみたいなことをやろうとしても、無理があるのかも。

 一番の問題点は、この文庫シリーズの著者が「〜会」とか「〜倶楽部」といった、よく実態のわからない人たちが書いている、ということだろうか。

 この「逆転の歴史物語」を書いている「歴史の謎を探る会」にしても、たいそうな会の名前にもかかわらず、別に「謎」というほどの「謎」を探っているわけでもない。いってしまえば、みんなどこかで見たようなことばかりである。

 まえがきには、「歴史好きには『それって、ほんと!?』の、歴史アレルギーには『あれ? 歴史っておもしろい!』の大逆転が待ちうけているかもしれない」と書いてあるが、たぶん実際は、歴史好きからは「今更、何、これ?」の、歴史アレルギーには「だから、どうした」の、至極当然の反応しか待ち受けていないだろうな、これは。

 内容的に見れば、「とんでも歴史本」のような、「よくこんなこと考えられるなぁ!」というブッ跳んだ見方もないし、深掘りもない。まあ、中学生が学ぶ歴史のサブテキストぐらいにはなるかもしれない。それだけの内容。NHK大河ドラマ・ファンの方が、よっぽど詳しいぞ。

 やっぱり著者名というか、情報提供責任者は明確にしなくちゃ。別に団体名ではイカン、と言うのではない。たとえば例の「と学会」でも、怪しげなグループ的ではあったけど、各書評に名前を載せていて、責任の所在をはっきりさせている。

 もちろん、著者名を出すことは、情報に対する責任の所在をハッキリさせるだけではなくて、「これが自分の主張なんだ」という意識付けを行うことによって、モチベーションの高い主張を行わせることにもなる。

 だいたいが、ホームページにしてからがそうだろう。この、たわいない「大阪市内さんぽガイド」だって、私、多根井高志の名前を出していることで、情報に対する責任を負うと共に、自分のモチベーションを高め、自分自身を次の情報提供のための準備に向かわせているのだ。

 出版社も、適当にライターを集めてきて、適当に資料を渡して、適当に書かせたような本を出版しては、いかん。内容以前の問題だ。

 内容以前、とはいいつつ、内容にも触れておこう。私がくだらないと思う理由は、ちゃんと述べておかねばならないだろうから。

 まず、第一の問題点として。この本では「小さな誤解や勘違いによって、人生の歯車を狂わせた人物や、死を迎えることになった英雄がいたのだ(中略)これまでの歴史の流れには無関係とされてきた小さな出来事や真実に光をあてている」というのが主旨らしい。

 えっ、「歴史の流れには無関係」???、ほんの小さな勘違いや誤解が歴史上の大きなイベントを生む契機となるなんて、歴史なら当たり前のこと。歴史好きなら、充分知っていることだ。だから、本当の歴史好きは、どんな些細な出来事でも見逃さないよう、いろんな本を読んだりして、自分なりに歴史に思いを馳せるのである。「歴史の流れに無関係」などと思っている人は、一人もいないはずだ。

 むしろ「小さな誤解や勘違いなんて、歴史の流れに無関係」と思っているのは、実は著者自身なのではないか。ならば、果たして、そう思い込んでいる者に、歴史を述べる資格があるのか? 「ある」と思っているなら、それこそ「勘違い」としかいいようがない。

 次に第二の問題点。著者は小さな誤解が歴史を動かした・・・という。確かに表層的にみれば、誤解や勘違いがその後のイベントの契機になったように見えるかもしれない。しかし、ことがそこに至るには多くの伏線があったはずである。それらが、単に「誤解」や「勘違い」という言葉で割り切られてはたまらない。

 たとえば、足利尊氏と弟の直義の確執から、最後に直義が毒殺された件を、この本では僧妙吉の謀略の言葉を直義が勘違いしたこととしている。確かに表面的に見ればそうかもしれないが、先に紹介した網野さんの本でも明らかなように、足利幕府での内部抗争は、日本の東西の対立など、様々な要因がからみあっているだけに、直義の勘違いで済ませられる問題ではない。第一、直義は「勘違い」したかもしれないが、それは「謀略」によってである。「勘違い」するように仕向けられたのであり、その謀略の背景には大きな企みがあり、歴史的に見て決して小さなものではなかろう(あ〜あ、網野さんの著作を読んだ後に、こんな本を読めば、落差の激しさで一層、この本の思慮浅さが目立ってしまうなぁ)。

 あるいは、明智光秀や石田三成の敗因も、「味方になってくれると思っていた人が、味方になってくれなかたばかりか、敵に寝返ったり」と、勘違いや誤解から生まれたとして紹介されているが、普通、それは「勘違い」とはいわずに「政治力」という能力の問題なんだけどな。政治力がない者や、先見の明がない者の行動は、確かに勘違いや誤解から生まれるものなんだろうけど。それも含めて、人間の能力なのではないのかね。

 まぁ、クリントンもミロシェビッチも、みんな勘違いしてるよな、どう考えても。これも、歴史とは無関係の小さなこと?

 アレキサンダー大王は、一匹の蚊に刺され、それによってマラリアに罹り死んだという説があるらしい(「トンデモ ノストラダムス本の世界」に載っていた)。これも、蚊がブンブン飛んでいる所に無防備に行ってしまったアレクサンダー大王の勘違い? せめて蚊取り線香があればなぁ・・・

 そうじゃないだろう、歴史から学ぶことって。

 人間が「死」から逃れられないのと同様、勘違いや誤解からも逃れることはできない。一匹の蚊が歴史を変える可能性を持っている(ヒトラーが子供の頃、ニホンアカイエカに刺されていたら、いったい、世界はどうなっていただろうか!)ように、結果的に(あくまで結果的に)歴史上の重要人物や重要イベントに、「小さな誤解や勘違い」「歴史の流れとは無関係のような小さな出来事」は付き物であり、それが歴史に大きなダイナミクスを与えるとともに、人間臭さも与えているのだ。

 先にも延べたが、この本の著者グループが本を執筆する大前提からして、間違っているのである。そして私は、そんな「勘違い」の大前提に立った歴史本が、大嫌いなのである。まだ、「とんでも歴史本」の方が、歴史を愛する心が感じられて、好感が持てるだろう。

 この「KAWADE夢文庫」シリーズ、営業妨害みたいなことはしたくないけれど、たぶん買わない方がいいと思うよ。特に、この「読書日記」を面白がって読んでくださっている方なら。

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(C) 1998 Takashi Tanei, office MAY