さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1998年9月〜1998年12月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●閑話休題
どなたも同様であると思うが、年末というのは思いのほか、多忙な季節である。仕事もそうだが、家庭でも、大掃除やら年越し準備やらで何かと忙殺される。
本来なら、3ヶ月に一度の更新ということで、そもそも12月の新ネタとしてデータをアップする予定だったのが、結局、年内にはできなくなってしまった。お詫び申し上げたい。
そこで、今回はイレギュラーだが、ここ4ヶ月に読んだ本を紹介させていただく。

●この期間、読んだ本
「仁義なき戦い(死闘編)(決戦編)」飯干晃一
「『民都』大阪対『帝都』東京」原 武史
「黄門さまと犬公方」山室恭子
「シナリオ・仁義なき戦い」笠原和夫
「日本地図から歴史を読む方法」武光 誠
「突破者(上)(下)」宮崎 学
「真珠湾作戦回顧録」源田 實

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「仁義なき戦い(死闘編)(決戦編)」飯干晃一・角川文庫
(98年9月3日〜9月12日)

 前回の「読書日記」をご覧になった方は「またか」とお思いかもしれないが、またまた「仁義なき戦い」である。

 いろんな経緯や、いわゆる「広島抗争」については、そちらを読んでいただくとして、ここでは飯干さんの小説(ルポ?)に絞って話す。

 全く「いい素材」に出遭えたものだと思う。広島抗争の当事者、美能幸三(映画で菅原文太が演じた「広能昌三」のモデル)元美能組組長が、獄中で書き記した膨大な手記を活かしながら、広島ヤクザの生き方を活写したものだからだ。

 実録手記だからこその「凄み」は当然だが、だからといって飯干さんがそれに寄りかかっているだけではない。まとめ方も、優れて良いのだ。

 飯干さんが自ら書き記している部分は、できるだけ客観的な表現を貫き(それはルポルタージュの口調といっていい。飯干さんが新聞記者出身だからこそなんだろうが)、感情を込めたりするシーンでは、美能氏の手記をそのまま引用している。

 飯干さんが手柄を一人占めしようと思えば、できたと思う。しかし、それをしなかったのは、たぶん、美能氏の手記そのものが、非常に優れた文章であるということ。これは読めばすぐわかる。すごく文章が上手だと思った。それに何といっても、リアリティが違う。当事者の手記なのだから、当然といえば当然なのだが。

 この重みの前で、いいところだけチョロまかし、「自分の文章でござい」なんて平然としていられたら、それは本当の文章書きではないだろう。だから、この小説(ルポ?)の優れた点は、結局、自分を抑え、美能氏の文章の凄みをそのまま取り上げたことの、そもそもの構成力にあるのだ。

 「ヤクザ話?」などと言わず、ある人間たちの記録として読み継ぎたい本であろう。

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「『民都』大阪対『帝都』東京」原 武史・講談社メチエ
(98年9月20日〜9月27日)

 「何々vs何々」という二元論的な論評は、ヘタをすると内容が差異ばかりに集約されて、結局、論点が矮小化される恐れがある。当然だが、現実は「あれか、これか」という単純な割きりなどできないからだ。それと、対比するものがステレオタイプというか、ありきたりの「対比の構図」に終わってしまうと、ずいぶん「陳腐」な印象を与えてしまうこともある(というか、与えてしまう)。

 その点で見れば、本書のタイトルも、いささか「陳腐さ」はまぬがれないだろう。これまでもさんざん、「東京」と「大阪」は対比されてきたし、その中で「帝都」「民都」という対比構図も、全くなかったわけではない。だが、内容は、結構、面白かった。ちょっとタイトルで損をしているかも。

 本書では、主に東京(というか関東)と大阪(というか関西)の「鉄道」の発展の違いを述べながら、「官」の支配力が強い「帝都」としての東京と、「民活」が幅を利かしていた「民都」としての大阪を説明していこうとする。その中でも、特にページ数が割かれているのは、阪急と国鉄(現JR)のオーバークロス問題についてだ。

 これは、昭和初期まで梅田で、現在のJR東海道線・環状線が「地べた」を走り、その上を阪急の高架が「跨いでいた」ことをいう。そもそも「国鉄(当時の言い方をすれば、省線か)」は、天皇を各地に行幸させるための手段であり、阪急が当時、日本で唯一、国鉄を跨ぐ路線を持っていたということは、天皇を跨ぐ、ということにもなり兼ねない問題であったわけだ。

 筆者は、ここに「官」の支配を嫌う大阪、あるいは関西の象徴を見る。

 結局、阪急のオーバークロス問題は、国側の強硬な姿勢により、環状線・東海道線の高架化、阪急の地上への降下化という結末で一段落する(その後、阪急は梅田駅を大きく後退させ、再び駅を高架にした。執念の賜物だろうか?)。

 やがて、南海や大軌(現在の近鉄)が天皇行幸の際の「お召し列車」に指名されたりと、関西の「官」の「私」支配はますます強化されていく。また大軌・参急(現在の近鉄)は「橿原神宮・伊勢神宮・熱田神宮」の参拝列車を走らせ、戦時体制下(著者に言わせたら「神都・伊勢」を中心とした体制)にとらわれて行く・・・。このようにして「民」は「官」の論理に呑み込まれたのだという。

 論旨は明解である。すごくわかりやすいと思う。今まで東京・大阪比較論は数多くあったが、鉄道史から捉えたものは、なかったと思うし、その意味でも面白い見方だと思った。筆者の言う通りだと思うし、その通りなんだろう。

 でも、本当に、それだけなのか?

 話は横道に逸れるが、ご了承いただきたい。正月、テレビで箱根駅伝を見ていたら、途中で昔のエピソードなどを紹介していて、その中に、次のようなものがあった。

 戦時体制も進み、日本中が「スポーツどころではない」という気分になっていた。当然、箱根駅伝なんぞトンデモないことであり、中止やむなしである。

 ところが、関係者は「やりたい」の一心だ。そこで、名前を「鍛練継走」に、スタート地点とゴール地点を靖国神社、箱根神社とすることで実施までこぎつけさせたそうだ。

 皮相的かつ短絡的に見れば、純粋なスポーツである箱根駅伝が、軍国主義の中に取り込まれてしまったかのようにも見える。しかし、軍国主義の仮面の下で「箱根駅伝を走りたい」という純粋な願いを結実させた執念もまた、確実に存在するのだ。

 「お上」に対する「民」の抵抗とは、本当はこんな所にもあるのではないか。表面上は「へえへえ、お上には逆らえまへん。おっしゃる通りにさせてもらいまっさ」てなことをいいつつ、心の中ではベロを出しながら、「さぁさぁ、言うこと言うたら、さっさと帰っておくれなはれ。アタイんとこは、お上であろうが何であろうが、儲かるんやったら、シッカリ儲けさせてもらいまっさ」などといっている人の方が、はるかに「民」として逞しいような気がするし、これこそ民衆のダイナミズムだと思うのだが・・・。

 冒頭に述べた「何々vs何々」という論理が、ついつい陥ってしまいがちな短絡的な結論に、本書も図らずも陥ってしまっているのといえるのではないか。

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「黄門さまと犬公方」山室恭子・文春新書
(98年10月17日〜10月26日)

 歴史上、日本には多くの「征夷大将軍(誠意大将軍という人もいたなぁ・・・)」がいたが、「アホバカ将軍を挙げよ」というアンケートを取ったら、たぶんベスト3入り間違いない、という人が「犬公方」こと徳川綱吉だろう。なんせ「生類憐れみの令」である。悪い意味で、これほど覚えやすい歴史もないだろう。日本史が苦手な人でも、たぶん知っているはずだ。

 テレビドラマでも、たいてい「ロクでもない人」として描かれることが多い。数年前のNHK大河ドラマ「徳川吉宗」では、津川雅彦が演じていた。あの人は本当に「大きな子供」みたいな役を演じさせると、いい味出すな。ちなみに99年の大河「元禄繚乱」では、ショーケンが演るらしい。これもたぶん、エキセントリックに演るんだろう。なんせショーケンだもんな・・・。

 しかし、「歴史の評価」というのは、本当に恐いものである。一度、世間に確立されたら、もう挽回のしようもないのだ。吉良上野なんて、いつまでも悪意の塊みたいに思われるし、反対に、源義経は永遠に悲劇のヒーロー(しかも美男子)であり続けるのだろう。そういう見方からすると、綱吉さんは、可哀相に日本史が続く限り「バカ将軍」であり続けるんだろうな。

 この本は、そういう我々の「凝り固まっちまった認識」を解きほぐしてくれる、面白本である。

 我らが「犬公方」さまと共に述べられるのは、これも「正義の味方」としての印象が固まってしまっている「水戸黄門さま」である。そういえば黄門さまって、何であんなに人気なんだろう?

 著者の山室さんは、当時の記録を丹念になぞりながら、なぜ「黄門」「犬公方」がこういった「人物評価」になってしまったのかを推察する。

 本人のキャラだけではなく、否応なく「水戸家当主」「将軍」になってしまった二人の思いについても、想像を馳せながら、論理の飛躍もなく明解に述べている。ある意味で、二人とも時代の波の中で、今のような「評価」になってしまったのだ。

 また、天下の悪法として名高い、例の「生類〜」についても、我々にとって知らなかった事実(今、一般に思われているほど、過酷な法令ではなかったらしいことなど)が詳しく説明されており、素人にとっては新発見の多い好著であろう。

 まあ、綱吉さんが本当は学究肌の生真面目なお方であったとしても、源義経が猿顔で無礼な奴であったとしても、足利尊氏が気の優しいイイ人であったとしても、吉良上野が名君であったとしても、「それで、どうした」というところはあるかもしれない。

 でも歴史上「そうと信じられている」ものが、実は全くそうではなかったり、あるいは別の見方もあるということを、常に頭に置いておくことは重要である。

 そういう意味で、本書は頭の「凝り」をほぐすきっかけとして、絶好の一冊。そして、私が読んだ98年の本の中で、ベストに挙げたい一冊である。

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「シナリオ仁義なき戦い」笠原和夫・幻冬舎アウトロー文庫
(98年10月21日〜10月23日)

 またまた「仁義なき〜」で、ゴメンナサイ。どうも、この一時期、ハマってしまったようで・・・。

 これは、東映映画「仁義なき戦い」シリーズ全5作の中から、笠原和夫脚本の4作、つまり「仁義なき戦い」「広島死闘編」「代理戦争」「頂上作戦」のシナリオを集めたものである(ちなみに残りの1作は「完結編」である)。

 脚本は、笠原氏ならでは見事なワークばかりで言うことはないが、しかし、むしろ読み応えがあるのは、巻末に記された笠原氏自身による後書きである。

 各シナリオ執筆中の「産みの苦しみ」などという言葉では表現できない、苦闘。さらには映画化にあたっての原作者(美能幸三氏)とのエピソードなど、興味引かれる内容が多い。

 シナリオ4本で文庫本1冊、六百円(税別)。しかし、この後書きだけでも六百円は惜しくないと思った。

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「日本地図から歴史を読む方法」武光 誠・KAWADE夢新書
(98年10月27日〜10月27日)

 著者は明治学院大学助教授、というよりも、確か、かつて(今はどうか、よく知らない)あの「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を強力にプッシュしていた方だと覚えている。「東日流〜」は、私は200%偽書だと思っているが、信じる信じないはある程度、人の勝手だし、考え方の相違があってもいいので、ここでは置いておくとしよう。

 とにかく、この本も「武光史学」によって、いろいろ刺激的な見方があるのだろう、と期待して買ってみた。が・・・

 予想に反して、「大人しい内容」なので、ちょっとがっかりした。入門用にはよいだろうし、子供が中学ぐらいになったら、読ませたいぐらいだとも思う。

 しかし、良くも悪くも、そういう内容である。しかも出張で新幹線に3時間ほど乗る、そんな時に読むには都合のよいボリュームだろう。

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「突破者(上)(下)」宮崎 学・幻冬舎アウトロー文庫
(98年12月14日〜12月19日)

 会社の上司から「面白いから、いっぺん読んだら」と長らく薦められていた本である。私も読みたい、とは思いながら、なかなか機会がなくて、読むどころか購入さえしていなかったのであったが・・・

 ある日ブラリと本屋へ行ってみると、何と文庫本になっているではないか! というわけで、勇んで買って読んだのだが、面白かった。

 一時、話題になった本なので、ご存じの方も多いと思うが、著者の宮崎さんは、例のグリコ森永事件容疑者、怪人21面相、「キツネ目の男」と目されていた人である。確か、この本が出る少し前に「闇に消えた怪人」(だったと思う)という本が出て、それがかなり宮崎さんが怪しげであるという旨を書いていたようなので、その本への「アンサー本」みたいに捉えていた。

 従って、こちらとしてはグリコ・森永事件という脈絡の中で読み込んで行きたいのだが、その個所は本書全体からみれば、わずかな分量でしかない。この本の主旨は、宮崎学という人間の半生記なのであるから当然なのだが、その半生というのが、面白いのである。私は正直、宮崎学という人が好きになった。

 ここで詳しく半生を述べるつもりはサラサラないので、どんなに面白いかは、自分で買って読んでもらうしかないが、たぶん、反対に全く面白くない、というか「こんな人間、嫌いだ」という人も多くでそうだ。そんな本である。

 最近、万人向けの無難な本ばかり読んでるからなぁ(?)、読む人によって好き嫌いがハッキリ分かれそうな本って、久しぶりかも。

 それにしても、「シナリオ版仁義なき戦い」といい「突破者」といい、しばらく「幻冬舎アウトロー文庫」から目が離せんなぁ。

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「真珠湾作戦回顧録」源田 實・文春文庫
(98年12月22日〜99年1月5日)
 「源田實」という名前を初めて知ったのは、確か中学の時だったと思う。当時、日米合作映画として公開された「トラ! トラ! トラ!」の中で、三橋達也が源田實氏の役を演じていたのである。従って、今でも「源田實」という名前を聞くと、条件反射的に三橋達也の顔を思い出す。

 余談だが、他の出演者は山本五十六に山村聡、南雲忠一に東野英治郎、渕田美津夫に田村高廣といったキャストだったと思う(実家に帰ればパンフもあって、参照できるのだが・・・)。あ、あとアメリカ側の出演者には、マーチン・バルサムなんかがいたかも。

 次に源田實氏の名前を見たのは、中学の頃あった参議院選挙全国区開票速報だったと思う。「真珠湾攻撃」なんて、もう過去の話と思っていたし、だいたいが山本五十六や南雲忠一だって戦死しているから・・・。なんて思っていると、自民党の候補者にいるんだもの。写真で顔を見たけれど、三橋達也には全然似ていなくて(当たり前か。でも資料で見たことがある渕田美津夫は、田村高廣っぽかったぞ)、いまうっすら残っている印象からいえば、山村富市元総理を元気者にしたような感じだったようにも思う。

 オヤジに「源田實って、真珠湾の源田實かぁ」と聞いたら、反権力・反戦志向のオヤジは「ああ、そや。こいつのせいで、だいぶ人、死んだどるんや。せやけど遺族会か何かの支援で、いっつも上の方で当選するんや」と吐き棄てるようにいったことを覚えている。

 前置きが長くなったが、源田實氏とは、1941(昭和16)年12月8日、日本とアメリカが戦争に突入した緒戦、ハワイ真珠湾攻撃立案に参画した海軍参謀である。真珠湾奇襲成功により出世、その後、ミッドウェイ海戦を立案するが、こちらは大惨敗。例の神風特別攻撃隊(特攻)の立案者の一人とされている(これは誰が言いだししたか、実はよくわかっていない。源田氏をはじめ、いろんな説がある。結局、源田氏は墓場まで、「言いだしっぺ」の名前を持っていったわけだ)。我がオヤジの、源田實に対する一種の憤懣は、こんな辺りにあるのだろう。

 私も、源田實氏には、あまりいい印象はなかったが、それはどちらかといえば三橋達也と見てくれが違う、ということに起因していたかもしれないが(別に三橋達也のファンではないが)。

 結局、私にとって源田實氏は、しばらく忘却の彼方の人だったのだが、書店で本書を見て、三橋達也の顔がチラチラと浮かんできて、思わず買ってしまった、という次第。

 「戦記」と思って読めば、多分、たいがいの人は失望するだろう。何を隠そう、私だって「戦記」、しかも参謀だった人の手に汗握る戦記だと思っていたのだから。

 これは、「作戦遂行録」である。つまり真珠湾攻撃の立案から始まり、実際の戦闘での対処など、キメ細かに描かれている。だから一種の「戦記」と見られないこともない。しかし「戦記」らしい、ある種の熱気というか、情念というか、そんなものがあまり感じられない。

 本書にあるのは、作戦立案者から見た実際の戦闘であり、作戦遂行における記録である。そういう意味では、あまり「ひと気」が感じられないのも当然なのだ。むしろ、人を「駒」として使い切る雰囲気が伺えるだろう。

 まさに、机上で軍団を右へ左へ、まぎれもなく一種のゲームとして動かし、実際の戦闘において、自分の「手」が有効だったか、そうでなかったかを見極める。そこに歩兵一人一人に対する思いなど存在しないし、そんな余地もない。極論すれば、凄く非人間的な世界である。むしろバーチャルゲームの世界の方が、プレーヤーの登場人物に対する思い入れは強いといえるだろう。

 しかし、これは何も源田實氏が、人間味のないヒドい人というわけではない。「参謀」という職が、そんな職なのだ。もっといえば、戦争とは、そんなものなんだ。

 「戦記」として見れば、「熱さ」はないけど、これ、今仕事でプロジェクトなんか進めている人には、参考になるかも。ビジネスも戦争も同じとはいわないけれど、計画を立てて進めるっていうのは、最終的には同じ。たとえそれが、人の生死が関わる戦争であろうが、ビジネスであろうが、好きな女性をモノにするたくらみであろうが・・・、てなことを言ったら、言いすぎか?

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(C) 1998 Takashi Tanei, office MAY