さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1998年6月〜1998年8月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●閑話休題
夏は例年、超多忙期なので、更新は遅れるし、本は読めんし、さんざんな季節である。
おまけに二人の娘は代わりばんこに病気になるし・・・。
読んだ本の数が少ないのは、そういう理由でご容赦いただきたい。

●この期間、読んだ本
「実録『仁義なき戦い』・戦場の主役たち」洋泉社MOOK
「アメリカの夜」フランソワ・トリュフォー
今回の2冊の本を読んで…

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「実録『仁義なき戦い』・戦場の主役たち」洋泉社MOOK・洋泉社
(98年8月13日〜8月26日)

 別に「ヤクザ映画」が好きなわけではない。飯干晃一氏の小説「仁義なき戦い」はもちろん、東映のシリーズ作品も見たことがなかった。

 ごく一般的な知識として「仁義なき戦い」が、広島ヤクザを描いた実録小説・映画であることぐらいは知っていたし、菅原文太の広島弁だって、随分なじみのあるものだったし(「朝日ソーラーじゃけん」というセリフも耳に残っている)。でも、「仁義なき戦い」については、その程度のものだった。

 さんぽ人が、この本に強く惹かれた理由は、「実録」というものの凄さに尽きると思う。

 書店でちょっと手に取ってみた。すると見たことはないけど、妙に凄みのある顔顔顔。キャプションを読む。「映画で金子信雄が演じた」云々、「菅原文太演ずる広能昌三のモデル、美能幸三」云々…。これが単に菅原文太や金子信雄や梅宮辰夫のブロマイドやスチルが載っているだけなら、すぐに書架に戻しただろう。

 本物が持つオーラとでもいおうか、もちろん菅原文太は文太で、映画スターとしてのオーラはあるんだけど、これはオーラの種類が違うとしかいいようがない。実際に人を殺すのも平気な人々が、そこに居並んでいるわけだから。魅入られてしまったとしか、答えられないのだ。

 前置きが長くなったが、この本は、飯干氏の小説や東映の一連のシリーズ「仁義なき戦い」で描かれた、広島における終戦直後から約四半世紀に及ぶヤクザ同士の抗争(第一次から第三次まである)を再整理し、さらに当時の当事者の日記・証言やインタビューを交えてまとめたものである。非常に人間が入り組み合って複雑であるが、極めて興味深く読めた(人間関係が頭に整理できるまで、私は3回読み直した)。

 別に「想像を絶する世界」などと言うつもりはサラサラないが、まあ、本当によくこれだけの人が死んだものだし、みんな結構、シレっとして人を殺せるものなんだなあ、と。

 感心している場合ではないが、やっぱり戦後という「時代」の気分や、戦争で生死の境界をさまよってきた者たちだからこその凄みがあるのだろう。

 どんな小説や映画であれ、「本物」に勝るものはない。だから、私は本物が載っている本があると、惹かれてしまうのだ。ある意味、「恐いもの見たさ」というか。

 確かにウォーレン・ビーティはカッコいい。フェイ・ダナウェイもイカしてる。でも、本物のボニーとクライドの写真を見れば、本物のオーラに囚われずにはいられない。

 いくらSFXが進化してもの凄いスプラッターな映像で気持ち悪くなったとしても、「切り裂きジャック」に切り刻まれた女性の死体写真には及ばない。

 あー、何か変態みたいだな、俺。書いてて気分が悪くなった。話を戻そう。

 この本で一番の読み物は、広島抗争の渦中にあった人物で、四代目共政会最高顧問、小原一家総長・門広(もん ひろし)氏、それと否応なく抗争に巻き込まれていった元岩本組組長・岩本政治氏のインタビューと、元打越会若頭の山口英弘氏が抗争真っ最中に記していた日記の抜粋だろう。まさに当事者だけのオーラの固まりである(三人の話したり記したりしている内容が真実かどうかは、このオーラにとって、あまり問題ではない)。

 門氏のインタビューは、昔日のできごとを笑いを交えながら結構、豪快に語っており、「今だから話せる」という部分に興味が惹かれる。

 岩本氏のインタビューは、「今でも、よくわからん」という風情を漂わせながらの淡々とした話が、かえって抗争の複雑さ、激しさを感じさせる。

 一方の山口氏の日記は、抗争さなかの当事者のリアルタイム記録として、実に緊張感を与えながらも、極めて冷静な筆致が「証言」としての重みを感じさせる(しかも、なかなかの美文なんだな、これが。そういえば、私は未見なのだが、飯干氏の小説のベースとなった美能組元組長・美能幸三氏の手記も、なかなかの名文らしい)。

 念のためつけ加えておくと、私はもちろん、ヤクザを容認しているわけではなく、当然、広島抗争を「男と男が火花を散らす、任侠の世界」などと美化するつもりはない。いみじくも飯干氏がタイトルにつけたように、この四半世紀にわたる抗争は「仁義もへったくれもない」ものであって、裏切り裏切られドロドロの人間の一番、汚い部分が噴出しているものである。

 ただ、ここで言えるのは、そんなドロドロしたものが、決して「ヤクザ社会」固有のものではなく、おそらく全ての人間に共通したものである、ということだ。それを、一般のカタギの衆は「世間」とか「社会」という仮面の中に押し込んで生き、あの当時の広島ヤクザはモロに露出させて生きていたという「差」に過ぎないのではないだろうか。

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「アメリカの夜」フランソワ・トリュフォー/山田宏一訳・草思社
(98年8月14日〜8月17日)

 ずいぶん昔(10年ほど前)に買って読んだ本である。しかし、なぜか3年に一度ぐらいの割合で読み返す。今回もお盆休みに読み返した。

 作者名を見てわかると思うが、これはヌーベルヴァーグを代表する映画監督、故フランソワ・トリュフォーが72年に製作した「アメリカの夜」の原作本である。原作というより、映画ができてから、ノベライズされたものであるが。

 この映画は私の大好きな映画のひとつだ。物語は、ある映画(劇中劇)のクランクインからクランクアップまでを描いている。その中で織りなされる人間模様…。言葉にすれば月並みだけど、コミカルであったり、ちょっと哀しかったりと、様々な悲喜劇の中で、何とか映画をスケジュール(しかも前倒しにされてしまう)通りに撮っていこうとする監督はじめスタッフ、俳優たちの苦闘(?)が、面白い。

 劇中劇の監督も、トリュフォー自身が演じていて、その中で彼がいう独白「映画作りは駅馬車の旅に似ている。出発する前は希望に燃えているが、一旦走り出すと、何とかたどり着くことだけが目的となる。これじゃダメだ、今ならまだ、何とかできる、いつも自分にそうやって言い聞かせる…」は、トリュフォー自身の偽らざるホンネとして、非常に重いセリフだろう。

 そればかりではない。このセリフは映画づくりだけではなく、多少、制作に関わる仕事をしている私にも、一種の人生訓となっているのだ。だから、何度も読み返しているのだろう、と思う。

 たまたま8月初旬の毎日新聞夕刊(大阪版)を読んでいたら、映画監督の大森一樹がエッセイで「アメリカの夜」を取り上げていて、彼もまた、映画撮影中にこの映画のビデオソフトを持ち込み、何度も見ながら自分で自分をはげましている、と語っていた。今、何らかのカタチでモノづくりに携わっている人は、絶対、見た方がいいと思う。ビデオでもいいし、本でもいいし。

 ちなみにタイトルの「アメリカの夜(La Nuit Americaine)」とは、フランスの映画用語で、カメラレンズにフィルターをかけ、昼間に夜のシーンを撮影する技法をいう。ハリウッドで始められた技法なので「アメリカの夜」というらしい。ちなみに英語では「Day For Night」という(私がこの映画を始めてみた高校か中学3年の時、英語版で封切られたのでポスターなどに刷られた原題は「Day For Night」になっていた記憶がある。今ビデオソフトでレンタルされているのはフランス語版なので、ちゃんと「La Nuit Americaine」になっている)。

 この技法は、実際に夜に撮影するよりも夜らしく見えるといわれる。トリュフォーがこのタイトルをつけたのも、「本物らしい虚構」と「虚構らしい本物」の違いについて述べたかったからのようだ。

 元来、映画自体、「本物らしい虚構」の世界である。しかし世の中には「虚構らしい本物」よりも「本物らしい虚構」の方が、リアリティーと説得力を持つ場合がある。映画のリアリティというのは、まさにその部分によりかかっているわけだ。

 この映画の副題は「映画に愛をこめて」(たぶん、「アメリカの夜」だけではわかりにくいので、日本の配給会社がつけたのだろうけど)となっている。

 まさに映画のための映画、メタ映画として作られたこの作品に、最もふさわしいタイトルではないだろうか。

 それと、もうひとつこの本で楽しいのは、巻頭にあるトリュフォー自身による解説「なぜ映画のための映画なのか」と、巻末にある映画評論家であり同書の訳者である山田宏一氏の解説「もうひとつの『アメリカの夜』」だろう。

 特にトリュフォーと親しかった山田氏の解説による「楽屋落ち説明」は、映画ファンなら読んでおきたいものだ。

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今回の2冊の本を読んで…

 ところで、今回の「実録『仁義なき戦い』戦場の主役たち」と「アメリカの夜」の私の紹介文、一読して奇妙に思われた方がいるかもしれない。

 前者は「事実ならではが持つオーラの強さ」について述べ、後者は「虚構の方がむしろリアリティを持つ場合がある」と述べた。矛盾しているように思えるだろう。しかし私の中では完全に同居している。

 「実録〜」の中には、「虚構のような本当の話」がある。たとえば本文でも紹介した山口英弘氏の日記にあるエピソードだ。簡単に紹介しよう。

 山口氏の組の若者が、敵対する組の本拠地に、いわゆる出入りをかけた。激しい銃弾戦が繰り返された。その後、とりあえずは責任者格同士で話をつけよう、ということになった時に、パトカーのサイレンが鳴った。慌てふためいた両組織は、蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。かなり慌てていたのだろう、山口氏側の若者の車がエンストして動かなくなったそうである。その時、車を押してエンジンをかけるのに協力したのが、出入りをかけられた方、つまり、ついさっきまで拳銃を撃ちあっていた敵対する組の若者達だったそうだ。

 このエピソードをフィクションで作れば、あまりにも出来すぎているし、かえってウソくさくなる。まるでコメディであろう。しかしひとたび、この話に「実録」とか、当事者の「証言」とか「日記」という冠が付くと、それは途端に、「極限の中の奇妙な人間心理」として輝きを持ったエピソードに生まれ変わる。

 反対に、我々は映画やテレビドラマが虚構であることを、充分以上に知っている。「仁義なき戦い」がいかに実録映画であったとしても、虚構は虚構である。菅原文太が実際に逮捕されたことはないし、松方弘樹が実際に殺されたことはない。しかし、そこに「本物のような虚構」への並々ならぬ製作者の努力が払われることで、我々はドラマに感情移入し、没頭するのである。

 アプローチは正反対でも、たどり着く地点、つまり見る者読む者を没頭させるということは、全く同じなのだ。

 先ほど「アメリカの夜」を、「本物らしい虚構」の世界を描く、映画のための映画、と述べたが、実はトリュフォーの意図には、もうひとつあって、「虚構のような本当」と「本当のような虚構」がだんだん曖昧になっていき、どちらがどちらか、わからなくなる、という点だ。

 たとえば劇中劇に出演する俳優たちは、劇中劇での関係と現実(映画の中の)の関係を混同しはじめたり、現実(しつこいようだが、映画の中の)の移り変わりによって、虚構(劇中劇)のストーリーが左右される様が描かれる。

 たとえば、恋人に逃げられた男優(トリュフォー映画に欠かせないジャン=ピエール・レオーが演じる。子供ぽくて、なかなかイイ味)を、妻役の女優(ジャクリーン・ビセットが演じる。とてもキレイ!!)が励まそうとしているうちに、一夜を共にしてしまう(トリュフォーによれば、この一夜の過ごし方こそ「極めてアメリカ的な一夜」であり、タイトルとのダブル・ミーニングにもなっている)。

 今度はすっかり女優にぞっこんになった男優が、この一件を女優の夫にチクり、今度は女優がノイローゼみたいになってしまう。女優は仕事も夫も捨てて、どこかに逃げ出したい、と監督に訴える。監督は、女優を慰め、何とか復帰させるが、女優の切々たる心情吐露の言葉を、そのまま脚本の、女優のセリフとして流用し、女優に呆れられる…、などなど。

 トリュフォーが描きたかったのは、現実と虚構が複雑にからみあって、一種、物語の「神話力」が生まれる、ということではなかったのか。真実は虚構の味付けを加えることで、神話となる。虚構は真実の化粧を施すことで、また神話となる。

 我々が、物語に没頭し、熱中するのは、これら「神話力」に惹かれてのことであろう。「アメリカの夜」が教えてくれるのは、この境界線の微妙さであり、あやふやさであり、「線」自体のはかなさではないのか。

 「神話力」として物語を捉えれば、それが虚構であるか真実であるかは、極論すれば、あまり問題ではないからだ。

 いや、「問題ではない」というより、「どこまでが虚構で、どこからが真実か」を詮索しても意味がない、というべきか。

 「実録 仁義なき〜」にしても、掲載されている当事者3人の証言が、全て真実かどうかはわからないわけだ。3人がウソをついている、などど言うつもりは毛頭ない。しかし、現実とか真実というものは、誰かの目を通して語られる際に、必ず、その人のバイアスがかかってしまうわけだし、確かに3人は当時の抗争の渦中にいたわけだが、全てを目の当たりにしていたわけでは、決してないから。

 当然、人から聞いただけの話もああるだろうし、中には(我々の日常生活でも、しばしばある通り)、彼らが「真実」と思っていることが、単なる噂話でしかないとも限らない。だが、それをもって、「3人の話はアテにならない」などとは、決して言えない。

 彼らは彼らが知っていることを、できるだけ詳しく述べたのだろうし、彼らが当事者であるということから生まれる「神話力」によって、我々は引きずり込まれたわけなのだから。

 つまり「真実」と「虚構」は、相反する両極端にあるのではなく、実は重なり合い、持ちつ持たれつの関係にあるといえるのかもしれない。

 ロック的(?)にいえばピンク・フロイド「The Dark Side of The Moon」で示唆されている「狂気」と「正気」の関係、って言うか(あんまり本文とは関係ないな。ごめんなさい)。

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(C) 1998 Takashi Tanei, office MAY