さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1998年3月〜1998年5月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●この期間、読んだ本
「マンガと『戦争』」夏目房之介・講談社現代新書
「大阪の電車・青春物語」橋本雅夫・草思社
「歴史を変えた偽書」ジャパン・ミックス編・ジャパン・ミックス
「『家をつくる』ということ」藤原智美・プレジゼント社
「皇紀・万博・オリンピック」古川隆久・中公新書
「パリ・世紀末パノラマ館」鹿島 茂・角川春樹事務所
「『パサージュ論』熟読玩味」鹿島 茂・青土社

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「マンガと『戦争』」夏目房之介・講談社現代新書
(98年2月26日〜3月4日)

 夏目さんのマンガ論は、別冊宝島「マンガの読み方」でもわかる通り、今までの日本ではちょっとなかったタイプのものだ。非常に分析的で、科学的といってもいい。

 本書では、主に戦後の代表的なマンガを取り上げ、その中で戦争がどう取り上げられているか、さらに、その取り上げ方から戦後の日本の戦争に対する一種の「集団意識」を分析しようと試みている。

 全体の「流れ」は非常にコンパクトにまとまっていて、読みやすい。扱っているネタも、手塚治虫から宮崎駿まで、有名どころが揃っている。「戦争」という根本テーマにとらわれることなく読んでも、それだけで日本マンガ史を一望できるかもしれない。

 この本の主題が、時代を一望するためのものであるとしたら、その役割は充分過ぎるほど果たしているといえるだろう。

 ただ、あえて言うなら、それだけひとつひとつのマンガに割かれるページ数は少ないということで、内容にどん欲になればなるほど、「食い足りない」という印象が強くもなるだろう。

 夏目さんには、ここから派生して、もっと本テーマに則って、さらに深掘りした著作を期待したいところである。

 わがままを言っているように聞こえるかもしれないが、「もっと詳しい続編を期待したい」と思わせる本って、以外にないものなのだ。そう、さんぽ人に思わせたということを、この本への最大の賛辞とさせてもらいたい。

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「大阪の電車・青春物語」橋本雅夫・草思社
(98年3月3日〜3月7日)

 筆者の橋本さんは、長らく阪急にお勤めになり、宝塚関係の著作や、「阪急電車・青春物語」を書かれた方である。いわば本書はその「阪急〜」の姉妹本にあたる著作といえるだろう。

 内容は、タイトルからもわかる通り、大阪を中心とした近畿地方の主な私鉄(そして若干のJR線についての記述もあるが)のざっとした歴史や、こぼれ話的なエピソードを、盛りだくさんに紹介したもの。

 さんぽ人も、大まかな歴史として近畿地方の鉄道の移り変わりを知っていた(耳学問程度だけど)が、本書によって新たに仕入れられた情報も多い。もちろん、中には本当に興味をそそられる内容もあった。

 例えば、信貴生駒電鉄(現在の近鉄生駒線)が、大阪の交野や京都府八幡への延伸を目指していたとか(その一部が現在の京阪交野線)、南海電鉄と阪和電鉄(現在の JR阪和線、当初は私鉄だった)の乗客獲得競争から、南海はすでに昭和初期に冷房車を走らせていたとか・・・。

 意地悪な見方をすれば、この手の話しって、確かに電鉄各社の「社史」を紐解けば、必ず載っている内容であり、それを単にまとめただけともいえるだろうが、「一望できるまでにまとめあげてくれた」という功績は、極めて大なのだ。

 それ以上に感じるのは、著者の橋本さんの「電車を愛する心」である。この本には、単に資料をまとめただけの本にはない、もっと「熱い」ものがある。それが、「電車への愛」なんだろうと思う。だから、面白くないはずはない。

 少しわがままをいうと、本書は、あくまで現在の主要電鉄会社の「若き日」というポイントでまとめあげられているため、すでに廃線や解散になってしまった路線や会社(国鉄に吸収されたりしたものも)に対する記述が少ないようだ。

 例えば、今はJR学研都市(片町)線となった、旧浪速鉄道、今はなき桜宮線(鴫野と京橋の間で片町線と分岐。さらに網島から桜宮へ。現在、廃線)とかについては全く触れられてはいないし、それは奈良県の長谷電鉄(大和櫻井←→長谷寺。後、現在の近鉄と合併。その後、廃線)などについても同様だ。

 できたら、橋本さんには、ぜひ続編、例えば「関西のJR・青春物語」などを書いていただきたいものである。何?「人に頼むぐらいなら、自分で調べろ」ですと?

 確かにその通りですが、まあ、ここは適任者に、ぜひともお願いしたい、ということで、ひとつ、よろしく(偉そうに!)。

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「歴史を変えた偽書」ジャパン・ミックス編・ジャパン・ミックス
(98年3月15日〜3月24日)

 「トンデモ本の世界」の成功以来、疑似科学関係の書籍が急増したが、これは「と」の疑似科学と並ぶ人気ジャンル(?)である、歴史にスポットをあてた本である。

 さんぽ人は元々、歴史も好きなので、若いときから「トンデモ」な説も含め、いろんな本を読んできたが、こうやってあらためて集めてもらえると、まあこれだけトンデモな「歴史」がマジで語られたもんだと思う。

 決して自分は、ガチガチの「否定論者」ではないし、トンデモな説でもそれなりに面白がって読んできたが、そんな能天気さに、我ながら薄ら寒い思いになった。

 トンデモな説が笑いのタネとして楽しめるってことは、まあ、平和な世の中であるって証拠なんだろう。しかし、歴史的に、いわゆる「歴史偽書」が、時代時代の権力などと結びつき、そのため迫害や危険にさらされる人々が確実にいたのだ、ということにあらためて気づくと、それはもう笑いのタネだけでは済ませられないのだ。文字どおり、「トンデモない話し」になってくる。

 全体主義的な体制というのは、体制を維持するための共同のアイデンティティ、というか共同幻想としての「神話」を求めるものなのだろうが、「偽史」は元々が「捏造」である分、体制が求める神話体系に、カンタンに組み込まれ骨格となる。

 そんな風に考えていくと、結局、本当の「歴史」と「偽史」の違いなんて、その組み込まれ易さの違いでしかないのではないか、と思えてくる。

 もっとよく考えてみると、全体主義的ではない共同体−−たとえば今の日本など−−でも、何らかのカタチで「神話」は存在し、それなりに機能しているわけでもあるし。まあ我々としては、へんな輩のとんでもない思惑に振り回されないように、せいぜい気をつけるしかないのかもしれない。

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「『家をつくる』ということ」藤原智美・プレジゼント社
(98年4月10日〜4月17日)

 新聞の書評などで取り上げられて、かなりの注目を集めた本である。4カ月ほどで第7刷だから、売れてもいるのだろう。確かに、注目を集めるだけのことはある。とても興味深くて面白い内容だ。

 「家づくりは家族づくり」というテーマに基づき、住まいの有りようから、現代の日本の状況を考えようとするものである。

 おそらく、本書の中で、一番下世話的にみんなが関心を引かれる部分は、例の神戸の酒鬼薔薇「少年」の家や自室についての記述だろう。藤原さん自身が本書で述べているように、それをもって犯罪心理学的な分析や、あの少年を作り出した要因を探し出すものではないし、それは著者にとっても本意ではないだろう。

 ただ、この手の本は、短絡的に読もうと思えば、いくらでも読めるもので、本書から表層的に「そうか、子供部屋とかは作らないほうがいいんだ」みたいな結論を導き出す人も多いのではないか、と思う。

 マスコミに登場する心理学の専門家や犯罪学の専門家が、いくら何を言おうと、問題の解決までほど遠いのと同様、本書は、神戸の事件やそれ以後の年少者の暴走、そしてもっと拡大解釈して、現代日本の家族のあり方を解決するための福音ではないし、また、そう短絡的に読むことは、おそらく著者に対しても失礼な行為だと思う。

 この本は、読む人を考え込ませるために書かれているのだと思う。解決策などいっさい、書かれてはいない。解決策のように見えるのは、可能性のいくつかの方向性にしか過ぎない。家族問題というものは、家族の数だけケースがあるはずだから、この本から触発されて、自分なりの(自分の家族にだけ適用できる)解答を考え込まなければならない。

 そういう意味では、読者の「本と向き合う姿勢が問われる本」だと思う。非常に重要な書籍だ。

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「皇紀・万博・オリンピック」古川隆久・中公新書
(98年4月20日〜5月2日)

 お年をめされた方ならご存じであろう(さんぽ人は子供の頃に、オヤジから聞かされて覚えていた)「紀元は にせ〜ん ろっぴゃく年〜」の歌でおなじみ(?)の、皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)に企画された東京オリンピックと東京万博など関連イベントについて詳細に調べられた本である。

 ご存じ無い方(特に若い人か?)に、一応ご説明しておくと、戦前の「皇国史観」では、初代の神武天皇が大和の橿原に皇宮を構えたのが紀元前660年とされる。

 そこから数えて、ちょうど1940年が2600年目にあたる、ということで、記念式典とかが行われたわけである。冒頭の歌も、その時作られたものだ。

 が、もちろん、2600年という数字は、古代史的・歴史的には全く根拠ない数字であり、かつ、初代の神武天皇は実在さえ定かではない。

 さんぽ人が、「2600年」を知っているのは、オヤジから、その関連事業である橿原神宮一帯の改修工事にかり出された(当時15歳)という話しを聞かされていたからで、冒頭の歌も、その時、歌ってくれたからだ。

 ちなみに、さんぽ人のオヤジは、軍国少年からはほど遠い人物で、この時の気持ちも「面倒臭いなあ。しんどいなあ」という感じが強かったらしい。

 当たり前だが、戦前、軍国主義台頭時代だからといって、みんながみんな「お国のために」「天皇陛下のために」と思っていたわけではない。オヤジのような、さめた人もいっぱいいたのだ。

 現に、この本でも、当時の一般民衆の中でも、盲目的に天皇への忠誠心から、2600 年の事業に参加していたわけではないことがよくわかる。どちらかというと、経済的な思惑や地元への利益誘導など、むしろ「生臭さプンプン」な様子がうかがえて、それが面白い。やっぱり最後は、自分たちが潤う方向に流れていくのだ。

 そういった思惑を、本書では「皇室ブランド」と表現されているが、言い得て妙だと思う。

 この本に難癖をつけるとしたら、関連する当時の資料などが詳細に引用されているのだが、その部分が多すぎるということか。確かに、原資料に当たり、その中から論旨を導き出すというのは、必要不可欠な手段である。しかし、これが学術論文ではなく新書である以上、詳細すぎる資料引用は、かえって余分なだけのように思えるのだが、如何。

 正直いって、私は資料引用の部分は、ほとんど読み飛ばした。それでも論旨は明快に通じる。ならば、ページ数を減らしてコストダウンして欲しかった。

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「パリ・世紀末パノラマ館」鹿島 茂・角川春樹事務所
(98年4月24日〜4月29日)

 ここ数年、19世紀のパリに関する書籍を立て続けに発表している鹿島さんの96年の作品。

 さんぽ人も、何かとパリが好きなので、非常に興味深く読ませてもらった。

 この本のいい所は、1見開きにワンテーマを基本に論旨が進められている点だろう。そのテーマは、例えば「エフェル塔」であったり「アールヌーボー」であったり。まあ、19世紀といわず、現在でもパリを語る際に欠かせないキーワードが、鹿島さんならではのエピソードを散りばめながら、語られていく。

 単にさんぽ人が無知だっただけかもしれないが(たぶん、そうに違いないが)、「へえ、そうだったのか」という話しも多い。例えばサン=シモンの話しとか。

 挿入されている写真なんかも面白い。サクレクールができる前のモンマルトルの丘なんて、思わず凝視してしまった。

 そんな本だから、すぐに読めてしまった。もう、もったいないぐらい短時間で。価格を読書時間で割ったら、1時間当たり、すごく高くなりそうである。まあ、うれしい出費ではあるけれど。

 この本は、共同通信配信の連載コラムとか、「マリ・クレール」に掲載されたエッセイをまとめて作られたそうだ。

 いろんなメディアに掲載されたエッセイやコラムをまとめた本は、読みやすいかわりに、統一のテーマなんかがボヤけてしまうものも多いが、これは徹頭徹尾、(たぶん)鹿島さんの思いに貫かれたテーマがある。

 「楽しきパリ」である。その一点のみ。だから「パリ好き」にはたまらない本。もし近々パリを旅行する予定があるのなら、事前勉強に、この本を読んでいくといい。そこらのガイドブックを読むより、はるかに面白いパリ見物の一助になるはずだ。

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「『パサージュ論』熟読玩味」鹿島 茂・青土社
(98年5月1日〜5月27日)

 前掲「パノラマ館」が面白かったので、ついつい買ってしまった、鹿島さんの著作、今月2冊目である。

 「パリ本の鹿島 茂」と「ヴァルター・ベンヤミンのパサージュ論」この組み合わせは注目に値する(という表現が月並みなら、『むっちゃくちゃ食欲がそそられる』でもいいけど)。

 従来、ベンヤミンは、ドイツ人であることから、ドイツ文学者が取り上げるケースが多かったように思う。私の大学時代では、ベンヤミンといえば野村 修さん、と相場が決まっていたもんだ。

 最近では、ベンヤミンの思想家的側面からか、今村仁司さんなど、思想・哲学者の翻訳・評論が多いように見受けられるが、よくよく考えれば、ベンヤミンのパサージュ論をはじめパリ論については、鹿島さんに語ってもらうのが、一番よいのかもしれない。

 鹿島さんは、今の日本で一番、19世紀〜20世紀初頭のパリを、時空を超えて遊び回れる人であるし、そんな人だからこそ、20世紀前半のパリに生息し、時間を超越して 19世紀のパリを自由気ままに遊び回ったベンヤミンを語るにふさわしいと思うのだ。

 で、肝心の中身だが、はっきりいって難しい。暗喩・隠喩・換喩・直喩〜、魔術師のようなベンヤミンの言葉と、これまたそのペースに巻き込まれながら、真っ向から立ち向かう鹿島さんの言葉が渦巻いているのだ。何回、前のページを読み返したか。

 特に出だしは、どちらかというと、鹿島さんが読者を忘れて、一生懸命、ベンヤミンと対話しているようで、取り残されたような格好の私には、非常に辛かった。

 しかし、70ページぐらいを過ぎて「モード」とかの話しあたりになると、俄然、面白くなってくる。「ああ、辛くても読み続けてよかった!」という至福の一瞬ですね。結局、それぞれのテーマが具体的になってくるから、非常にとっつきやすく、わかりやすくなるのでしょうが。

 じゃあ、最初を飛ばして、この辺りから読めばいい・・・というわけでもない。苦労して冒頭を読んだから、何かしら論理の方向性も見えてくるというもので。

 で、最終、読み終わって考えた。「パサージュ論とは、何か」。これがまだ、さんぽ人にはよく見えてこない。ああ、つくづく思う、自分の身にあった本を読むべきであったなあ、と。

 まあ、とりあえずは最初から読み直しますか・・・。

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(C) 1998 Takashi Tanei, office MAY