さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1997年12月〜1998年2月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●この期間、読んだ本
「地図通になる本」立正大学マップの会・オーエス出版社
「ヨーロッパ中世の心」今野國雄・NHK出版
「北京『中南海』某重大事件」富坂聰・講談社
「世界はこう動く」Z.ブレジンスキー/山岡洋一訳・日本経済新聞社
「ダン−−モロボシダンの名をかりて」森次晃嗣・扶桑社

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「地図通になる本」立正大学マップの会・オーエス出版社
(97年11月2日〜11月5日)

 これは非常に面白い。掘り出し物ともいえる本である。

 私は周囲の人から「地図オタク」とも呼ばれており、今までも地図を眺めたり、あるいは堀淳一さんの一連の著作を読んだりしていた。従って、地図関係の書物があれば、内容に関わらず、けっこう手にとって見るほうだ。そういうわけで、この本も、手に取ってはみたが、当初、正直にいえば、あまり期待していなかった。まあ、よくあるタイプの初心者向けで、底が浅い(失礼!)入門書なのだろう、という感じだ。

 確かに、入門書であることは、間違いなかった。しかし、「底が浅い」という予感は、うれしい方向に裏切られた。

 内容は、地図の見方から、果ては歴史、自分で地図を作ってみよう、など。基本は、よくある入門書風で、2、3ページにひとつの項目が書かれてあるのだが、結構、詳しそうなことまで網羅されている。きっと、本当に地図が好きな人々が書いたんだろうな、という内容。

 地図にあまり詳しくない人には、読みやすい割りに、地図についての豊富な知識が得られることは間違いないし、私のような地図好きには、基礎的な事項を確認したり復習したりするのに役立ちそう。

 そういう意味でいえば、地図好きにとっての「イミダス」代わりに使える本である。

 価格も1,300円(税別)と手頃。多少なりとも、地図に関心があるというなら、絶対に買いだ!

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「ヨーロッパ中世の心」今野國雄・NHK出版
(97年11月6日〜12月17日)

 私は日本といわず、ヨーロッパといわず、比較的、中世史が好きなので、思わず買ってしまったが、結構、中身は情報量がいっぱいでハード。割と読むのに苦労した。

 筆者は、ヨーロッパ中世の「心」を、様々な「二項対立」と提示しながら解きあかそうとしていく。それは各章のタイトルを見れば一目瞭然である。

 「聖像と偶像」「正統と異端」「戦争と平和」「個と普遍」などなど。

 絶対神が支配するキリスト教的精神風土においては、二項対立による「読み解き」は、非常に有用な手段なんだろうけど、これはどちらかというと、「心」ではなく、「精神性」や「理念」の世界なのではないか。「心」と「精神性」や「理念」がどう違うか、うまくいえないけど、「精神性」や「理念」は、それはそれであるとして、実際の暮らしや生き様というのは、それらを乗り越えた所に、もっと生臭いカタチで、ダイナミックに存在するのではないか、とも思う。特に民衆レベルでは。そして、その中にこそ、本当の「心」があるのではないだろうか。

 どちらかというと、私は民衆史的な方がすきなので、どうしてもそう思ってしまう。もっと下司な話しの方が、興味深いのだ。

 資料としては極めて詳細で、そういう意味では価値ある著作だが、私の知りたいこととは、ちょっとずれてしまっていた、というのが冒頭の、「ハード」という印象の理由だろう。繰り返しますが、いい本であるとは思いますよ。

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「北京『中南海』某重大事件」富坂聰・講談社
(97年12月25日〜12月30日)

 わかりにくい中国という国の、その中でも特にわかりにくい権力闘争について書かれたノンフィクションである(たぶん)。

 この本の面白さの源泉は、わかりにくい権力闘争を、江沢民と北京市長の陳希同の闘争に絞りきったことにあるのだろうと思う。

 その争いの中で、チベットでのある共産党員の死亡、地方都市での経済事件、マクドナルド北京店の移転、といった、全く関係なさそうな事件が絡み合っていく。それはまるで、サスペンス小説を読んでいるようでもある。

 どうも江沢民の顔を見ていたら、ノビ太みたいなもんだから、迫力は感じられんけど、まあ、彼も大変な苦労をして、総書記はってるんだなあ、などと妙な納得をしてしまう。

 これから中国がどうなるか、よくわからないけど、中国トップのアノ手コノ手を見ていたら、わが国の政治家なんて、子供みたいなもんだなあ、なんて思う。

 確かに、「週刊ポスト」連載の「票田のトラクター」みたいに、いろんな暗躍があるのだろうけど、中国のシビアさには比べもつかないだろう。これで生き残る奴は、必然的に交渉での粘り強さが、筋金入りになってしまうわけだしね。

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「世界はこう動く」Z.ブレジンスキー/山岡洋一訳・日本経済新聞社
(98年1月17日〜2月27日)

 アメリカという国は、第二次大戦後(あるいはもっと前から)ずっと、ソ連と共産主義の衛星国を「ライバル」として捉えてきた。ソ連陣営もまたしかり。世界中がそう、理解してきた。互いが相手を恐怖のタネとして、生存を妨げる不倶戴天の敵として位置づけてきた。たとえば・・・

  ロシア人を憎めと、生まれてからずっと教えられてきた
  今度、戦争が始まったら、敵はヤツら以外にいない
  ヤツらを憎み、恐れ、逃げ、隠れよ
  誇りをもって、それを受け入れてこそ
  神は我ら(アメリカ)に味方する
 (ボブ・ディラン「神が味方 With God On Our Side」より)

 ディランの詩がアイロニーいっぱいで誇張ぎみだとしても、当時のアメリカ人の心情としてのホンネを伝えていることは間違いないと思う。なにしろ、この歌が書かれたのはキューバ危機の頃なのだから。

 アメリカという国は、世界の大国として君臨しはじめてから、まだ百年も経っていない歴史の浅い国である。その国が、世界大国としての道を歩む上で、仮想敵国として(あるいは実質的に敵そのものとして)ターゲットにしていたのはソ連であった。

 確かに第二次大戦では日本やナチス・ドイツが敵国ではあったが、「共産主義」への恐怖心は、おそらく実戦での敵以上の敵として認識されていたのではないか(アメリカにはナチス・ドイツに対するある種のシンパシーさえ感じられる部分もあるし、日本は戦後、忠実な家来になったし。第一、日本は「ライバル」として認識できる「同等」の相手でさえなかったのではないか)。

 極論すれば、アメリカの今世紀の栄光を支えていた技術革新力、工業生産力などは、ソ連がいたからこそあれだけのパワーを発揮できたわけだし、さらにいえば、あれほど突出した軍事力を西側諸国が容認してきた(なかにはフランスのように、あからさまに嫌う態度を示す国もあったが、実際には容認せざるをえない状況だった)のは、ひとえにソ連というライバルのおかげなのである。

 そう、アメリカはソ連の賜物なのだ。

 ブレジンスキーの本を読んだ時だけではなく、ちょっと前にキッシンジャーの本を読んだ時にも感じたことだが、戸惑っているような感じが、行間からぷんぷんしてしょうがないのである。

 いわゆる「冷戦」とは、ケンカでいうなら、決して直接殴り合うことはないけれど、お互いが拳を振り上げながら、威嚇を繰り返していたようなものだ。もう、拳は極限まで振り上げられていた。

 ソ連は、拳を極限まで振り上げて、もうこれ以上振り上げられないという所まできて急にギックリ腰になって、「アタタタ」といって倒れたら、その拍子に頭を打って死んじゃった、てな感じですかね。

 アメリカは当然、戸惑うだろうし、第一、振り上げた拳の持っていき場がなくなってしまった。

  本当のしけたケンカなら、多少戸惑いつつも、「それ、ザマァ見たことか。今日はこれぐらいにしといたる!」などと肩で風きって去ればいいのだろうけど、国家レベルになると、そうはいかない。拳を振り下ろすのにも「面子」が必要だからだ。どうもソ連の「急死」は、アメリカに面子づくりの時間さえ与えなかったようだ。

 この戸惑いを、どう捉え、どう解釈したらいいのか・・・たぶん、それがアメリカの知識層の課題なのかとも思う。キッシンジャーは、国と国との関係を歴史的な事象から捉えて、「同盟同士の対立から、集団安全保障への転換」という流れ、つまりアメリカが世界の「学級委員」として存在することの正当性を述べたわけである。

 一方、今回のブレジンスキーは、あまり歴史的な経緯など振り返らず、「21世紀の世界の姿」として、(極論になるけど)戸惑いを「夢想」の中に処理しようとしている。

 なぜ、さんぽ人が「夢想」などというのか、といえば、ブレジンスキーはユーラシア大陸の地政を、チェスになぞって書いている(原題は The Grand Chessboard という)のだけれど、そもそも、そういう「なぞらえ」に安易に流れること自体が、たいがい「手詰まり」であることの証明であるわけで、それが一層、シビアな現実問題ではなく「夢想」の世界に逃げ込んでいる印象を強くさせるのである。

 本書を読めば「敵」を失ったアメリカ、というより著者のブレジンスキーにとっては、本書に予測的に述べられる中欧におけるドイツのヘゲモニー復活も、東アジアにおける中国の世界大国化も、警告を発しているようでありながら、実は「待ってました!」という気持ちのようにも感じるのだ。きっと寂しいんだろうな、対等クラスの敵がいなくて・・・

 「ライバル」関係は、力が同等だからこそ、成り立つのである。強力な一方が、他方の弱者を攻めても誰も評価しないわけで。

 その典型的な例が、冷戦終結後、早速、現れたではないか。91年の湾岸戦争である。

誰がどう見ても、アメリカとイラクじゃあ力の差は歴然である。ここで、アメリカがシャカリキになってイラクを責めつけても、あまりアメリカの「凄み」は伝わってこない。もっというと、「大人じゃない」って感じ? ハッキリいって、アメリカにとってマイナスにこそなれ、プラスにはなっていないのじゃないかな。

 念のためにいっておくと、さんぽ人は別に、「イラクは正しい、アメリカは間違っている。米帝国主義粉砕!」などと主張したいのではない。はっきりいう。イラクは悪い、私はサダム・フセインは大嫌いである。

 要するに、アメリカの戦い方(実際の戦闘行為を指すのではない)そのものが悪いのである。

 一応、アメリカ(およびアメリカの同盟国。日本も含む)は湾岸戦争に、勝った。しかし、その後を見ればわかるが、アメリカにとってこの勝ちは、負けに等しい勝ちであり、イラクにとっては勝ちに等しい負けである。イラクという国がその後、どうなっているかを見れば、よくわかるだろう。

 ソ連という、アメリカと同等の力を持つ(と考えられていた)国があって初めて、アメリカの外交戦略は成り立っていたのだな、という「感慨」(?)をいっそう強くする今日この頃である。

 要するに、名実ともに「ライバル」といえる相手にだけ押し通せるノウハウしか、アメリカは持っていないのではないか。そしてそれ以外の局面に対するノウハウのなさが、キッシンジャーやブレジンスキーの著作に共通する「戸惑い」ニュアンスの根源ではないだろうか、と思う。で、今、それを一生懸命、立て直そうと・・・ハハハ、僭越過ぎる考え方かもしれませんね。

 そんなことを強く思わせる一書であった。

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「ダン−−モロボシダンの名をかりて」森次晃嗣・扶桑社
(98年2月25日〜2月26日)

 ひし美ゆり子さんの、一連の「アンヌ本」がそれなりに注目されたので、いずれ出るだろうと思ってたら、やっぱり出た森次さんの「ダン本」である。

 いやあ、いろんな見方はあるだろうけど、私は結構、楽しんだ。たった二日で読んでしまったほど、楽しめた。

 ひとつはやはり「ウルトラセブン」に対する思い入れだろう。

 単なるノスタルジーでいうのではなく、今見ても「セブン」は充分、面白い。手垢のついた表現だけど、「大人の鑑賞にも耐える」ってやつですね。金城哲夫とか市川森一といった、一筋縄ではいかない作家達が、精魂込めて作った作品なのだから。

 「セブン」放映時、私は小学校の高学年であった。多少、生意気な口をきくようになってきた時期でもある。そこに「セブン」である。まあ、ドラマの思想性については、後年、いろんな書物を読むようになってから、「なるほど、そうだったのか」と理解したことも多いが、同時代人として見ていた子供心にも、「セブン」が「マン」をはじめ、他のウルトラシリーズとはちょっと毛色の変わった主張を持っているような雰囲気は感じられた。

 そういう雰囲気から、「セブン」を一連のシリーズの最高傑作に挙げる人も、決して少なくないだろう。

 だから、オタク本というほどではないにしても、「セブン」の裏側をある程度教えてくれるであろう、この手の本に関心がひかれるわけだ。

 もうひとつの興味というのは、最初とダブる要素もあるけど、「森次って、いったいどんな気持ちでダンをやってたんだ?」という、芸能裏面史的関心である。

 「あまりテレビや映画でバンバン出てきてる役者じゃないし、食えてるんか?(だって、ウッチャンナンチャンの番組で、オカマの隊長やってたほどなんだもん。仕事、他にないんか?と思った)」とか、「ダン役の呪縛は結構、大変だったのでは?」などという下司の勘ぐりでもある。

 なんせアメリカではスーパーマン俳優(クリストファー・リーブじゃないよ。テレビ版の方)が、自殺するほどだったしね。

 まあ、これは自分も40近くまで生きてきて、仕事の大変さがわかったからかもしれんが・・・

 この手の本のツライ部分は、やはりダンと森次本人の兼ね合いっていうか・・・。読む人によっては、「森次の一代記なんて、どうでもいい。ダンについて、もっと教えてくれ!」という声が、絶対、出てくるだろうからだ。で、ハッキリいって、そういう楽しみをもって読むなら、ちょっと失望かもしれない。世の中にいっぱいあるオタク本関係の方が、「セブン」については詳しく解説されている、と思う。

「セブン」制作の裏側についても、数年前に市川森一が書いて、NHKでやった「私が愛したウルトラセブン」というドラマがあって、これが割りと面白かった。

 それらに比べたら、ちょっと中身が薄い気がする。「セブン」関係以外の話しについても同様だけど・・・

 ただ、最後にもう一度、いっておく。私は結構、楽しんで読んだ。なぜなら、子供の頃のヒーロー役者が、落ちぶれず(そうなった人は多い)、結構テレビや映画、舞台(巻末の出演作リストを見れば、予想以上?にいろいろ出ているから)で今でも活躍されていることが、わかったから。よかったよかった!

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(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY