さんぽ人の読書日記

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CONTENTS
 

1997年9月〜11月
※3ヵ月に1度、さんぽ人が読んだ本を紹介していきます。書名の次行の年月日は、私がその本を読んだ期間を表しています。発行日とは関係ありません。
複数の本の読書月日に重複があるのは、私が複数の本を同じ期間に、ちょっとずつ代わり番こで読む癖があるためです。

●この期間、読んだ本
「別冊宝島・トンデモさんの大逆襲」
「イギリス王室物語」小林章夫・講談社現代新書
「別冊宝島・1970年大百科」宝島社
「白村江〜古代東アジア大戦の謎」遠山美都男著・講談社現代新書
「『次』はこうなる」堺屋太一・講談社
「海から見た戦国日本−−列島史から世界史へ」村井章介・ちくま新書

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「別冊宝島・トンデモさんの大逆襲」
(97年9月19日〜9月25日)

 いわゆる「ドンデモ本」について、さんぽ人は今まで読んでも「何だかな〜」という気持ちが強かったので、例の「と学会」による「トンデモ本の世界」「トンデモ本の逆襲」が出たときには、割合、快哉を叫んだ方である。本書は、その「トンデモ」な人たちや、いわゆる「超科学」「疑似科学」研究者にスポットを当て、レポートしたものである。

 いやいや、だいたい想像はしていたが、皆さんの「真面目さ」と「勤勉さ」には本当に舌をまく(揶揄しているのではなく、本心から)。その研究姿勢は、たぶん「信頼性があると思われている、正規の学会の親玉学者」よりも、数段、真摯であることは間違いなかろう。

 ただ、自分の信ずるところに忠実になりすぎて、たぶん、周りがほんのちょっと、見えなくなっているだけなんだ。そして、それをうまく利用して、一儲け企む人々が、周囲に多すぎるだけなんだ。

 よくよく考えれば、トンデモさんのような人は、トンデモ本を探さなくても、周囲にはいくらでもいる(いませんか?)。見方によっては、さんぽ人だって他人の目から見れば、トンデモ的な側面を持っているだろうし。

 そういう点から考えれば、これは世間によくある「トンデモ便乗本」の一種ではなく(正確には、そうなんだろうけど)、社会人類学の本として読んでも面白いだろう。

 でも、本当にここまで真摯になれるなら、さんぽ人も「トンデモな人」と呼ばれたいほどだ。

 自分の想像もつかない世界を、かいま見たい人におすすめする。同じ別冊宝島の「陰謀がいっぱい」と合わせて読むと、きっともっと面白くなる!

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「イギリス王室物語」小林章夫・講談社現代新書
(97年10月3日〜10月8日)

 少し前(96年)に出版された本だが、例のダイアナさんの事故死で、現代新書の一番目立つところに置かれるようになった本。さんぽ人が思わず買ったほどだから、ついつい買ってしまった人も多いのでは? しかし、本書は、単なる「ダイアナ便乗本」では済まされない面白さがあった。

 イギリスというの国は、日本人好みのする外国だから、いままで歴史書みたいなもの多かったのだが、これは、いわゆる政治とか経済とかいう側面から、時間的流れに沿って解説するのではなく、イギリスの王・女王の中から、非常に「人間臭い(いろんな意味で)」人を選んで、そのエピソードなどを綴った書物である。

 イギリス通史の最低限の知識があれば、なお、面白く読めるだろう。「なんで、こんな奇矯な人物が、王(女王)になれたんだ?」というのは、最小限の説明はなされているが、やはりおおまかな通史を知っている方が、わかりやすいからだ。

 イギリス王室史に多少とも興味があるなら、まず、入門的に読むのがいいだろう。これから、いわゆる「通史」を勉強するという手もある。よくも悪くも、入門書の典型。

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「別冊宝島・1970年大百科」・宝島社
(97年10月14日)

 最初から終わりまで、じっくり読むタイプの本ではない。この本はカタログなのだから、たまにチラチラ見て、楽しむのがよかろう。特にさんぽ人のように1970年代に育った人間(さんぽ人の70年代は12才〜21才まで)にとっては。

 懐かしいものがいっぱい詰まっている。しかし、ただそれだけではある。資料的な価値はあると思うが。しかし、これならツェッペリンのCDでも聞いているほうが、よっぽどその時代に浸れるだろう。

 この3ヵ月間に買った本の中で、一番「買わんかったらよかった」と思った本。

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「白村江〜古代東アジア大戦の謎」遠山美都男著・講談社現代新書
(97年10月29日〜11月8日)

 最近の「自由主義史観」をはじめ、日本の歴史をいろんな意味で見直そうという主張が増えてきた。それぞれの主張は、さんぽ人にとって納得できるものもあれば、そうでないものもあり、一概にどの見方が正しいか、なんて結論づけられないけれど、いろんな考え方が百花撩乱のごとく出てきて、互いに論陣を張ることは、いいことだと思う。

 考えれば、今まで日本には、論争することさえ「タブー」だと思われていたことが多すぎた。そろそろ日本も、本当の意味で論争が活発な国になってもいいだろう。

 この本も、いままで歴史的に考えられていた、ある種の「常識」をくつがえす主張を持っている。

 タイトルから、「古代の戦争にまつわる真相や裏話」を期待して読んでしまうかもしれないが、はっきりいって間違いだろう。戦争自体の記述は、さほど多くないからだ。しかし、それを補ってなお余りある内容。

 非常に詳細な記述である。詳細すぎて、なかなか「白村江の戦い」自体の話にはならない。主題は、そこに至るまでの東アジア各国の状況分析と、戦後の各国の状況分析である。従って、この本は、古代の東アジア外交関係史として読むのが正しい。

 その脈絡の中で、従来考えられていた「白村江の敗戦ショック=先勝国、中国(唐)を模倣した諸制度の整備」という図式(第二次大戦後の日米関係のような)は間違いであって、中大兄皇子をはじめ当時の日本首脳陣が、もっと積極的に東アジア外交にかかわっていこうとする姿勢が見える、と筆者はいう。これはなかなか、優れた見方だと思う。

 日本書紀をはじめ、各国の歴史書の記述をフルに生かした研究内容は、一読の価値あり。古代史本は多いが、「東アジア」の一員としての日本の記述まで踏み込んでいるのは、はっきりいって少ないから。

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「『次』はこうなる」堺屋太一・講談社
(97年11月5日〜11月12日)

 読んで「なるほど!」とうなりたくなる本には、2種類ある。

 自分が今まで全く知らなかったこと、全く興味の埒外だったことを、充分、理解できるように提示してくれ、見事に論じてみせてくれるタイプの本。

 もうひとつは、自分の中に問題意識というか、何かモヤモヤとした主張みたいなのがあるんだけど、それがどうもうまく整理できない、問題のありようはわかるのだけど、どう結論づけたらいいかわからない、というようなことに対して、見事に論理の筋道をつけ、目から鱗状態で解説してくれているタイプの本。以上の2タイプだ。

 堺屋氏の本は、どちらかというといつも後者に属している。現在の世の中に対して、どちらかというと危機感みたいなものを感じている人や、「おい、政治家や官僚、何とかせいや!」という気持ちが、充分すぎるほどある人に対し、「それは、こうだから、こうあるべきなんだ!」と明快そう(?)に提示する。ある種、自分のモヤモヤした不満への「追承認」のような形で存在する本である。

 その点で読むなら、まさに期待を裏切ることはない。しかし、「追承認」が勝る本には、割と「新発見」は少ないものであって、堺屋氏の本書にも、「新発見」による納得というのは、どちらかというと希薄である。

 でも、靴の上から痒いところを掻くのではなく、じかに掻いてくれる快感はある。現在の世の中に対する「モヤモヤ」とした痒みを、爪を立てて掻いてくれる気持ちよさを求めたい人に最適な一書。

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「海から見た戦国日本−−列島史から世界史へ」村井章介・ちくま新書
(97年11月10日〜11月20日)

 これも前述「白村江」と同様、歴史をこれまでとは異なった視点から捉え直そうとする試みの本である。 「日本史」というのは、中央(権力構造によって、常に京都であるとは限らないが)から見た歴史に重点が置かれている。ましてや日本においては、歴史を学ぶ一番の目的というのが、「受験」勉強用なので、なおさらその傾向が強くなるのだろう。

 「中央」を視点の中心に据えると、エゾや琉球は、まさに辺境以外の何物でもなくなる。そして、多くの日本人にとって、「辺境」は中央より「遅れた」「未開」の土地という認識が、知らず知らずのうちに埋め込まれていく。

 ところが、エゾは日本海や樺太を経由して、中国大陸北方との交流の「中心地」であったし、琉球もまた、東シナ海を経由して、中国(明)との交流の「中心地」であった。

 そして、15世紀のヨーロッパ「大航海時代」と日本が出会う最初の受け口となるのは、これらの地域であると、この本の筆者は説く。

 当たり前のことだが、「中央」がいつも「辺境」として見下してきた世界にも、独自の世界、文化、交流がある。日本版「ミニ中華思想」ゆえに、私たちが見逃してきたそれらの世界を、このように改めて提示してもらえることは、実に興味深いと思う。読んでおいて、絶対、ソンアはない本!

 若い時に読んだ、レヴィ=ストロースの「野性の思考」を、ちょっとだけ思い出した。

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(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY