さんぽ人 放浪記・パリ編2:パリの日本人/1990年3月

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■ちょっと薄汚い飲み屋で

 酒好きのさんぽ人が、モンパルナス墓地の側の場末の飲み屋。カフェでもバーでもない、本当に「場末の飲み屋」というにふさわしいお店。そんな所だから、もちろん、さんぽ人の他に、日本人観光客など来そうにありません。それが、気持ちいいじゃないですか!(さんぽ人は、この時点で日本人の団体にうんざりしていたのである。自分もその一人のくせに)

 入ったのは、3時過ぎ。客はさんぽ人一人だけ。30才代後半と思われる店主は、カウンターの向こうで何か一生懸命、仕込みをしている様子です。

 少し前まで風邪でふせりながら歩いていたのも忘れ、この心地好いお店で、さんぽ人はビールのビンを重ねていったのでした。その度に、店主はニコッと笑いながら、ビールを持ってきてくれます。ああ、さんぽ人がフランス語に堪能なら、きっと楽しいおしゃべりでもできるだろうに。しかし、英語さえ満足にはできないのですからねえ。

 30分ほどもすると、他の客がポツリ、ポツリとやって来ます。このような店だから、案の定、客はすべて、常連のようです。


■常連同士の挨拶に「ああ、西洋だなぁ・・・」と

 他の客は、入ってくるなり「やあ!」という感じで店主に挨拶すると、カウンターで立ったまま呑み始めます。それから必ず、ふと、隅のテーブルに誰(私ですが)か座っているのに気づき、あわてて見ます。一瞬、「ナンダ、コノ外人ハ?」というような表情をしましが、すぐに「マア、イイカ」という感じで、ふだん通り(たぶん)また和やかに呑み続けるわけです。

 また、客が来ます。例によって、店主に「やあ!」と挨拶。それから先着の客とも常連仲間なのでしょう、「元気?」という感じで軽く抱き合って挨拶しています。このへんが、何とも西洋ですね。それから例によって、隅っこの見慣れない日本人(私ですが)に、一瞬、不審な表情をするものの、すぐ、気にも止めず呑み始めるのです。

 さんぽ人は、その繰り返しが何だか面白く、常連たちの後ろ姿(みんなカウンターに向かって立って呑んでいるので、さんぽ人からは後ろ姿しか見えない)を見るともなく、見ていました。

 やがて女性の常連客もやってくる。女性は、先着の客の頬に軽くキスをしながら、挨拶をしています。本当に、何とも西洋的ですね。

 やがて1時間もすると、カウンターの前は5〜6人の常連客で埋まってしまいました。それだけで、カウンターはいっぱい。きわめて賑やかな状態です。


■常連の中に、場違いな人あり。しかし・・・・

 常連客が、また一人やってきました。割と若い客が多い中、ちょっと小柄でくたびれた感じだったので、「あれ」と思って見てみると、どうも日本人のよう。でも、常連であるのは間違いなく、カウンター前に陣取るほとんどの客と、抱き合って挨拶しあっていました。

 周囲の客に比べ、ひょっとしたらさんぽ人以上に「場違い」な格好のその人。年齢は60前くらい。生成りのよれよれのジャンパー、よれよれのズボン、髪の毛は白髪まじりのボサボサ。手にスケッチブックを抱えています。そう、パリに流れ着いた貧乏画学生が、そのまま年をとったような人です。

 その人は、他の常連客がそうであったように、店の片隅に何やら人影(しつこいですけど、私ですが)を感じ、「何だ?」という表情で一瞥しました。

 そこにいる人影が日本人だとわかった時の、その人の顔は、あれから7年経った今でも忘れることができません。

 子供が悪戯を発見された時の表情のようでもあるし、見てはいけないものを見てしまった時の表情のようでもあるし。その人は、すぐに顔をカウンターの方に向け、さんぽ人と顔を合わせないようにしました。

 さんぽ人は正直、唖然としていました。さんぽ人の中には「あの人は日本人じゃないのかなあ。ちょっと話がしてみたいなあ」なんて思いがあったのですが、いきなりドアをピシャリ!と閉められたようで、つまりはちょっと悲しくもあったのです。

 「しょうがない」さんぽ人はそう思い、またまた店主と目が合うと、ビールビンを掲げて、おかわりを頼むのでした。


■今も忘れない、あの「お辞儀」

 せっかく出会った日本人定住者に、ピシャリと拒絶されたような状態で、しょうがないから、さんぽ人は俯きながらビールをすすり続けていました。でも、何かモゾモゾと視線を感じるんですよねえ。

 慌てて顔を上げて見てみると、例の人が、さんぽ人の方を見ております。さんぽ人が彼の方を見ますと、慌てて顔を背け、常連たちとオシャベリを始めます。で、しかたなく、さんぽ人はまたビールを呑み続けると、またもや視線がモゾモゾと・・・

 こんなことが、ずーっとしばらく続きました。「オッサン、ええかげんにせいや」と言いたくなる。その反面、「オレとしゃべりたいのかな? 違うのかな? 何やろ?」という思いもありました。ちょっと、さんぽ人自身、戸惑ったわけなんです。

 今にして思えば、声をかければよかったかも。「別に話すことはない」といわれるかもしれないし、ひょっとすると、中国語や韓国語で話し出すかもしれない。だって、さんぽ人は、その人を、本当に日本人かどうかも知らないのだから。

 結局、自分自身踏ん切りがつかないまま、さんぽ人はただ、呑みながら座っているだけでした。

 時計を見ますと、4時半も過ぎています。今日は6時から、ツアーの打ち上げディナーです。いくらホテルが近いからって、飯の前にシャワーでも浴びておきたいですからね。「もう、帰ろうか」そう思い。さんぽ人は席を立ちました。

 もとよりキャッシュ・オン・デリバリーですから、そのまま扉を押し開け、出ていけばいいだけです。ただ、最後にさんぽ人は、ふと、例の人を見てみたくなり、振り返ったのです。すると、その人も、さんぽ人を見ていました。今度は顔を向けるだけでなく、身体の正面をさんぽ人に向けています。

 その瞬間、なぜかさんぽ人は、その人に向かって深々とお辞儀をしてしまいました。本当になぜかわかりません。ほとんど脳の指令ではなく、脊椎がとっさに行ったとしか考えられないような感じで。

 顔を上げると、今度はその人が、一瞬背筋をピンと伸ばして、それから深々とお辞儀を返したのです。まるでお辞儀が伝染したような奇妙な感じでした。

 さんぽ人はそのまま弾き出されるように、外に出ていました。「何なんだろう、あの人は」そう、帰る道々でずっと考えていました。しかし、ことの真相なぞわかるはずもなく、また真相を突き止める努力もしなかった自分ですから、しょうがないんですけどね。

 でも、反対に、そのままだったから、今でも奇妙な体験として妙に生々しく記憶にも残っているのでしょうし、こうやって、書く気にもなるのでしょうけど。わからないままの方が、きっと面白かったのでしょう。

 奇妙な人といえば、パリ旅行の前に寄ったロンドンでも、私は奇妙なおばあさんに出会いました。その話は、また別のページで。本稿は、とりあえず終わり。

   
(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY