北区・天満寺町 墓所めぐり

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■スポット解説

 「寺町」というと、真っ先に思い出すのは、京都の寺町。あえて大阪市内で思いつくといえば、せいぜい天王寺区の下寺町までか。現在の大阪市の正式町名には、「寺町」は、存在しないのだ。しかし、今でもバス停名としては残されているし、かつては確かにあった。そして、そこは現在でも「なるほど寺町!」という風情を残している。

 「寺町通り」とでも名付けたい道がある。西は摩天楼そびえる天満のOAPから、ず〜っと西に一直線に約1.5キロ、菅原道真ゆかりの露天神(というより今は、お初天神の名前の方が通りがいい)まで。これが大阪にあった「寺町」である。

 「寺町」は、ほぼ真ん中にある天満堀川(現在の阪神高速守口線)によって、「東寺町」と「西寺町」に分けられていた。「西寺町」は、今や兎我野町や太融寺といった歓楽街に飲み込まれている(もちろん、そのような場所を「さんぽ」するのも大好きだ)が、「東寺町」は、現代でもなお、都心に似つかわしくない静かな通りである。そして、名前の通り「寺」が軒を連ねている。

 そして注目なのは、その居並ぶお寺さんに、大阪の歴史に名を残すお歴々が眠っていらっしゃることである。つまり、通りを歩くだけで大阪の歴史さんぽができるかもしれない、ということだ。

 大阪の代表的な盛り場である兎我野町や曾根崎と、新しめの名所OAPを一直線に結ぶ道路に、歴史を彩る人々が永眠している。この落差と取り合わせの妙が、なんだか非常に面白い。




■地図とおすすめコース


●龍海寺(緒方洪庵とその一門墓所)

OAPから目と鼻の先に、日本の近代医学の父が眠っていらっしゃるんですねえ。

緒方洪庵(1810-1863)日本で最初に種痘を施したり、江戸末期に医学の近代化に大きく足跡を残した大偉人ですね。自宅に開いた適塾からは、福沢諭吉や橋本左内、大村益次郎などそうそうたる人材を輩出しました。

洪庵関係で史跡をたどるなら、ここから大川を越えて、北浜の適塾も回ってみるのがいいでしょう。






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●九品寺(五井持軒墓所)

大阪儒学の開拓者といわれる五井持軒(享保6年没)のお墓があります。

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●天徳寺(篠崎小竹墓所)

篠崎小竹(しょうちく:1781-1851)は頼山陽とも交流があり、「儒者の鴻池」とも呼ばれた私塾「梅花社」を開きました。小竹一家の墓がここにあります。

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●善導寺(山片蟠桃墓所)

山片蟠桃(やまがた ばんとう:1748-1821)は、江戸時代後期に活躍した「町人学者」です。本来は両替商「升屋」の大番頭(だから号を蟠桃としたらしい!)で、大名貸しなどを行い事業を拡大させた「辣腕経営者」でもありました。

蟠桃がユニークなのは、実業のかたわら儒学や洋学の師匠につき、学者としても大きな存在となったことです。彼の研究分野は、経済・経営・天文・地理・歴史などにまで及びました。そして、独自の研究から「地動説」を確信したり、「古事記」などの記述は単なる神話でしかないことを説きました。

つまり非常に近代合理主義の精神に満ち、無神論的/唯物論的思索を展開させたわけで、時代を考えると、まさに特筆すべき学者・思想家であったといえるでしょう。

それが、専門の学者ではなく一商人であるところが、いかにも反官・反権力で在野精神いっぱいの「大阪」的であるとはいえないでしょうか。


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●成正寺(中斎大塩平八郎墓所)

「義憤の人」大塩平八郎(1793-1837)は、俗に言う「大塩平八郎の乱」で世直しを図りましたが、あえなく一日で乱は失敗。平八郎は一ヵ月間、市中に潜伏していましたが、最後には発見されて自殺しました。

たった一日の「乱」とはいえ、東天満と大川南岸の谷町筋・堺筋・本町通に囲まれた一帯が焼け野原(「大塩焼き」という)となるほどの大激戦。ちなみに、日本で最初に市街戦で大砲がぶっ放された戦でもありました。

お寺には、共に挙兵し共に自殺した平八郎の養子嗣格之助と一緒に葬られています。

この大塩の乱などが契機となり、「天保の改革」が断行されました。

   
(C) 1997 Takashi Tanei, office MAY