生野区・桃谷かいわい

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  ■スポット解説

 上町台地の西側は、夕陽丘などがある東側に比べ斜面がなだらかだで、そのぶん穏やかな表情を見せる町並みである。かつては桃の花がいっぱいに咲く丘であったらしい。その名残は「桃谷」や「桃山」という地名にも残っている。

 桃谷は庶民の街でもある。JRの駅前から西方に向かって延びる商店街は市内でもきってのものであるし、もっと周辺を見れば、生野通商店街とか猫間川筋の商店街であるとか、スーパーにはない人なつっこい買い物スポットにあふれている。

 さらに北に目を転じると、コリア・タウンなどインターナショナルなスポットもある。ここは大阪がアジアとつながる街でもあるのだ。

 もしあなたが自転車をお持ちなら、鶴橋の大日本印刷あたりから疎開道路に入り、この通りを基点にしてあちこち回ってみるのをおすすめする。とにかく広範囲にわたって味わいのある街だから、正直いって徒歩だけでは辛いかもしれない(それで、何が「さんぽ」やねん!という批判があるかもしれないが)。

 歴史的にも見るべきものは多い。日本で最初の橋といわれる「鶴の橋」跡(鶴橋という地名のもとになった)や御勝山古墳で、古代へのロマンをかきたてるのもいいだろう。

 さんぽに疲れたら、ビールを飲みながら美味しい焼き肉をたらふく食おう。きっと誰でも気軽に迎えてくれる街だ。



■地図とおすすめコース


●桃谷公園

聞くところによれば、この公園、ずっと昔は斑鳩牛乳の牧場だったらしいですね。数十年前とはいうものの、大阪市のど真ん中で、牛がモーモー鳴いてたなんて、何か愉快じゃないですか。一見すればどこにでもある、ちょっと広めの公園でしかありませんが、こんな由来を知るだけでも、見方は大きく変わるんではないでしょうか。

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●疎開道路

今は大阪市内の基幹道路となっていますが、その名が示す通り、太平洋戦争中、空襲への備え(つまり建物と建物の間を広く取り、延焼を防ごうとした)と軍需施設への交通路確保のために、住民を強制的に立ち退かせて作ったものです。
この忌まわしい「疎開」という名前を消して、新しく「○○筋」という名前に変えるべきだ、とお考えの方もいらっしゃいます。むろん戦争など知らない若造の私が、それに対して是非をいう資格はありません。しかしひとつ思うのが、やはりたった半世紀前には、戦争や空襲という悲劇が<、この大阪のあちこちにあったことを、忘れてはならないということです。
繰り返します、たった50年前のことでしかないのです。そんなことを考えていただくためにも、「おすすめの場所」というわけではないけれど、ここに紹介した次第です。

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●御勝山古墳

現在は勝山通の北側に、こんもりした墳丘のみを残すだけの姿ですが、元来これは、前方後円墳の後円部分のみにあたります。本当は勝山通の南側にある公園が前方部にあたる(公園が前方とは、これいかに!?)ので、相当大きな古墳であったろうと思われます。
ちなみに、大阪城も前方後円墳の跡ではないか、という説もあり(だとすると、相当でかい古墳になる!)市内はひょっとすると堺市の百舌古墳群にも匹敵する古墳群だったかもしれませんね。

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●御幸森神社周辺

日本書紀によると、この近辺に仁徳天皇が日本最初の橋を架けた(鶴の橋。鶴橋という地名は、これに由来する)とか。もちろん日本書紀の記述が歴史的なものかどうかはわからないけれど、この辺が古代から開けていたことには違いありません。古くからの通りが続く閑静な町並みが素敵な、私の好きな場所のひとつ。

 

   
(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY