さんぽ人 放浪記・テル・アビブ編:約束の地/1991年5月

「放浪記」TOPに戻る
CONTENTS
 

■私は、テル・アビブには行っていない

 あらかじめ言っておきますと、さんぽ人はイスラエルへは行ったことがありません。じゃあなぜ、タイトルにもあるように「テル・アビブ編」なんか書けるのか、とお思いでしょう。結論を言えば、単に「人から聞いた話」でしかありません。しかし、その話は、さんぽ人にとって非常に印象に残るものだったので、一度、書かずにはいられなかった。

 厳密に言うと、「異国さんぽを語る」というコーナーのテーマから外れているとも思えますが、それでも書かずにはいられなかった。

 それでも、読んでいただけますでしょうか?


■ある外国人に出逢って

 もうかれこれ、6、7年前になるでしょうか。さんぽ人は例によって、週末の夕餉をこの店でとっておりました。

 なぜかその日は、常連をはじめ他の客は一切おらず、さんぽ人はママさんとカウンターに座って、二人で雑談を楽しんでいたのです。

 その時、扉が開いて、一人の客が入って来たのです。誰かと思って見ると、30才ぐらいの外国人。さんぽ人は初対面でしたが、ママさんは充分ご存じらしく、「あら、久しぶり」などと言って、彼を迎えたのです。

 「あら、久しぶり」という歓迎の言葉でわかる通り、彼は日本語(というより大阪弁)がペラペラ。ママさんの紹介から察すると、アイルランド生まれの彼は、どうも何かのディーラーで、あちこちの国を飛び回っているらしい。この店に来た(つまり日本に来た)のも久しぶりらしく、だからさんぽ人も、今まで知らなかったという次第です。

 「ああ、アイルランドですか、IRAなんか、大変でしょうねえ」などと、さんぽ人は例によって能天気に(つまり当事者の心境など察することもせずに)聞いたりしたのです。

 彼は「さ~ね、僕には関係あれへんもん」などと他人事のように語るのでした。その時、正直言って、さんぽ人はちょっと「イヤな奴」と感じたわけです。

 彼は商売柄か、スーツこそ着ていますが、耳にピアスなんかを着けて(別に今じゃ、珍しくもないけど)、どちらかというとヘラヘラとした軽薄な感じ。別に外見で人を判断するわけではないけど、やっぱり初対面では、大事な要素ですからね。

 次にママが聞きます。「でも、アイルランドって、イギリスとかから差別されたりしてるんやろう?」。彼は答えます。「まあねぇ。でも僕は、そのアイルランドでも差別される方やったしねェ」。

 「エエッ、なんで?」。さんぽ人とママさんは、同時に声をあげていました。

 「何でって、僕、ユダヤ人やもん」彼は相変わらず、軽薄に言ったのでした。


■彼の嫌いな国は「イスラエル」

 「ユダヤ人が嫌われるのは、イスラエルの責任やね。僕、あの国が大嫌いやねん」。 ママさんとさんぽ人は、思わず絶句状態が続いており、その代わり、彼は妙に饒舌になって、いかにイスラエルが嫌いかを説くのでした。

 「せやけど、アンタの祖国やろ?」と、気を取り直したママさんが、聞きました。

 「あんな国、祖国やなんて思わへん! あの国がなかったら、パレスチナはいっぺんに平和になるで。そしたら、世界中が平和になるで。あんな国、なくなった方がエエねん」と、まるで吐き捨てるように言います。

 何と言うんでしょうか、日本人には到底、伺い知れない深い深い感情が、世界の中にはいっぱいあるのでしょう。しかし、こんなものは序の口に過ぎなかったのです。彼の中には、もっと深い深い感情があったのです。


■テル・アビブ空港を歩きながら・・・

 彼は世界中を飛び回っているディーラーだから、当然、ママさんもさんぽ人も、次のような疑問がわいてきます。つまり「今まで、イスラエルには行ったことがあるか」です。

 彼は「ウ〜ン」と言って考え込みました。「僕、イスラエル大嫌いやろ。だから、絶対、イスラエルだけには行きたくなかった」

 すると、ママさんが、鋭く突っ込みます。「行きたくなかったってことは、行ったことがあるんやな?」

 「ある。一度だけ、どうしてもイスラエルに行って商売せなならんことがあってね。せやけど、もう、行くのが嫌で嫌で、行きの飛行機の中でも気分悪なって、もう、飛び降りたろか、思ったぐらいや」。

 「ふ〜ん」と、我々二人は最早、黙って聞くしかない状態。彼は続けます。

 「でな、とうとうテル・アビブ空港に着いたんやがな。それでも嫌で嫌で。もう、仕事終わったら、すぐ帰ったろ、思うて。まあ、空港を歩いてたわけや。そやけどな・・・」

 「そやけど?」

 「テル・アビブ空港を歩いてたらな、何か急に涙出てきてな、僕、思わず座り込んで、地面にキスしてたんや」


 さんぽ人は今でも、彼の言葉や、その時の表情を覚えています。しかし、不思議なことに、彼が「地面にキスをした」と言ってから後のことは、ほとんど覚えていません。あれから、自分がどうしたのか、彼とさらに、どんな話しをしたのか。どう別れたのか。どう店をでたのか。

日本人には到底、伺い知れない深い深い感情が、世界の中にはいっぱいある。それを思い知った一夜のことでした。

 

   
(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY