さんぽ人 放浪記・ロンドン編3:招かれざる客/1990年3月

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■「壁」の上にて思い出す人あり

 1990年の3月下旬、さんぽ人はベルリンを訪れました。会社の研修出張を1日サボって、ハノーバーから日帰りでやって来たのです。

 この時、ベルリンで見てみたい場所といえば、ここしかなかったでしょう。そう、あの「ベルリンの壁」です。さんぽ人は空港からタクシーで、何はさておきブランデンブルグ門へとやって来たのでした。

 このあたりは、「壁」が一番強固であったらしく、厚みは2メートル近くに達していました。しかし、壁の崩壊以後すっかり削られ、高さは2メートル以下にまで低められていたのです。

 さんぽ人をはじめ観光客(?)は、その上によじ登り、壁の上を右へ左へと、いろんな感慨や思いを胸に秘めながら、しばらく歩いて過ごしました。

 さんぽ人は、壁の上で、ふと大阪にいるWさんのことを思い出していました。

Wさんはドイツ人。当時私が住んでいた天王寺で、日本人の奥さんと、ご自分の吊前をつけたドイツ・レストランをやっています。昔聞いた彼の話しによると、そもそもは東ドイツの生まれで、5才ぐらいの時、西ドイツに移ったとのこと。その後、例の「壁」ができて以来、一度も東ドイツには行っていない(行けなかった)そうです。

 「Wさんが、この光景を見たら、どんな顔をするんやろ?」そんなことを、工事中のブランデンブルグ門を見ながら、考えていました。



■ドイツ人の深謀遠慮

 89年の晩秋、東ドイツ(当時)が、ついに固い扉を開け、あの「壁」が開放されました。さんぽ人の記憶に間違いがなければ、あれは確か金曜日のこと。たまたま会社の会議室でテレビを見ていたら、まさに歴史的なニュースが飛び込んできたのです。

 そのニュースを見た途端、さんぽ人はいてもたってもいられなくなり、早々に仕事を切り上げると、天王寺の「W」に駆けつけたのです。

 「歴史的な事件の、同時代人」である、ということが、自分を有頂天にさせていたのかもしれません。しかし、それ以上に、ドイツ人であるWさんが、この事件を「きっと驚喜しているにちがいあるまい。ひょっとしたら、ふるまいビールなど出たりして・・・」などという勝手な甘い予測に取りつかれていたのです。そして、できるなら、Wさんと、その喜びを、多少なりとも分かち合いたい、という気持ちでもあったわけです。

 「W」は、まだ客も少なく、例によってWさんはカウンターで、一人静かにビールを啜っておられました。

 「オオ、マイド。ココニ、オイデヤ」、彼はドイツ語なまり(?)の大阪弁で言うと、さんぽ人を隣の席に招いてくれたのです。

 意外にも、その日のWさんは、さんぽ人の勝手な思い込みとは正反対で、むしろ、暗く沈んだようにも見えました。むろんさんぽ人には、その理由などわかりませんが。

 あまりにも予想に反した様子だったので、さんぽ人は、例の話しを切り出すタイミングを失ってしまったのです。が、数10分、世間話をしゃべるともなくしゃべって過ごした後、ついに、意を決して聞いてみました。

 「ベルリンの壁、開いたねえ」 Wさんは、ちょっと空を見上げるような目をして、「アア、ソヤネェ」と、ポツンと答えました。

 それはそれは、非常に複雑な雰囲気でした。興味なさげでもあり、あるいは、こみ上げる感情を押し殺しているようでもあり、あるいは、状況に困惑しているようでもあったから。しかし、ついぞWさんから、この話題の先を切り出すことはなかったのです。

 この雰囲気を感じた瞬間、さんぽ人は急に恥ずかしくなってきました。「どうして、そんなにボクがハシャぐ必要があったのか。しょせん、部外者ではないか」と。ドイツ人のWさんだから、無条件に喜んでいるに違いない、と思い込んでしまった、自分の思慮浅さが、どうしようもなく、バカらしく思えてきたのです。

 さんぽ人は、その場を取り繕うように、こう言いました。「もう、10年もすると、きっと西ドイツも東ドイツもひとつになるんやろねぇ」。 さんぽ人がそれを言った時、それまでどちらかといえば、ドロ~ンとした感じだったWさんが、急にキリッとなり、キッパリとこう言い返したのです。

 「10年モ、カカラヘンヨ。3年、1年、イヤア、モット早イカモシレヘン」。

 さんぽ人は、「まさかね!」とは思いつつ、その言葉を飲み込むと、またしても取り繕うように返答していました。「そやね、きっとそうなるよ」。

 その後の「歴史」を見れば、答えは明らか。恐るべし、ドイツ人、という感じですか。とにかく、さんぽ人はその深謀遠慮に感心するしかなかったわけです。


■国境を、またぐ

 ブランデンブルグ門の前は、今や何の緊張感もなく、大道芸人や観光客がにぎやかな場所となっていました。

 吊物となった「壁の破片売り」が、ビニールシートを敷いただけの店を開いています。さんぽ人は、早速「破片」を買い求めました。詳しい金額は覚えていませんが、小石大の破片が5つほど入って、日本円で確か千円ぐらいだったと思います。高いか安いか、評価はわかれるでしょうが(ちなみに、当時まだあった東ベルリンに入るのにも、検問所でやはり千円ほど取られました。まるでテーマパークに入るみたい!)

 その後、壁に沿って南下し「チェックポイント・チャーリー」に向かいはじめました。この辺りは、壁はまだ高く、しかし、厚みが薄い分すぐに穴が開けられたようで、いたるところから東ベルリンの様子が伺えました。

 さんぽ人は、試しに大きな穴から足と半身を乗り出して、「東」に入る素振りをしてみました(冒頭の写真は、その時のもの)。すると、まだ東ドイツの国境警備兵みたいな人たちがおり、こちらへやってくると、自動小銃(こんなもの、初めて見たよ!)を振って「出ちゃダメ」みたいなポーズで、追い出されました(当たり前や!)。

 でも、何かみんな緊張感がなくて、国境警備兵も、タバコを吸いながら穴越しに観光客(あるいは西ベルリン市民)と雑談しています。ここで命を失った人が、山ほどいるんだけどね!

 ところで、さんぽ人が壁の穴に足を突っ込んだとき強烈に感じたことがあります。日本は島国、海という自然の境界があるから、反対に国境なんて、全く意識しなくても何ともないわけですね。ところが、あらためて、国境をまたいでみると、「何と国境とは、人為的で作為的な存在であろうか」と、感じざるを得ない。自分自身の「ノー天気」さを、あらためて痛感したのです。


■ドイツ人の深謀遠慮、その2

 その後、1週間ほどしてツアーを終えたさんぽ人は、家にも戻らず、まず、真っ先に天王寺の「W」に駆けつけました。手元にはドゴール空港で買った酒と、それに例の「壁の破片」。

 「W」への道すがら、さんぽ人は例によって、勝手な予想をたてておりました。

 「この破片を、Wさんに見せたろう。何と言うやろか。それともまた、複雑な表情を見せるのやろか? そうやな、Wさんが望めば、ひとつぐらい、破片をあげてもエエな」。

 その日の「W」は、常連たちがいて賑やかでした。たぶん、さんぽ人が土産を持って帰る日だとわかっていたからかもしれませんが。

 Wさんは、カウンターの中にいて、ビールをサーブしていました。今日は機嫌がよさそうです。さんぽ人は、「これなら大丈夫だろう」と、得意満面になって早速、バッグから例の破片を袋ごと取り出しました。

 「Wさん、これがねえ・・・」、と言いかけた瞬間です。

 「オオ、コレ、べるりんノ壁ヤロウ! イヤー、オオキニ、買ウテキテクレタンカ! 感激ヤナア。オオキニ、大事ニスルワ!」とまくし立てると、袋ごとむんずとつかみ取って、奥へと去って行ったのです。

 「いや、あの、それ、1個だけ、あの~」などと、さんぽ人は口をパクパクさせていますが、もう後の祭り。

 「アホやなあ、袋ごと出すからや。1個だけ出しゃあエエのに」などと、常連仲間からっバカにされる始末。

 「イヤイヤ、カエサルのものはカエサルに、っていうし、あれはやっぱり、ドイツの人が持ってこそ、意味があるわけじゃあないですかっ! ボクのような第三者が持つよりも、きっと、ずっとエエんですよ!」などと強がりを言ったものの、でも思わず「1個でもエエから、返してくれんかなあ」。常連たち「無理無理、あきらめ」。

 トホホ、恐るべし、ドイツ人、という感じですか。とにかく、さんぽ人はその深謀遠慮に、再び感心するしかなかったわけです。

この項、以上。

   
(C) 1996 Takashi Tanei, office MAY