地図で「さんぽ」する:大阪城は、巨大前方後円墳の上に建っている!?(後編)

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■なぜ、「大阪城古墳」は消えたのか



学術的な論拠からは縁遠いものの、ここまできたら、私としてはもう、「大阪城古墳」は現存していた、と確信するしかない! というものですよね。まあ、たわごとと思われるかもしれませんが、いいじゃないですか。しかし、私がう信じたとしても、最後の最後に、最大の謎、というか問いが残るのです。それは「なぜ、そのような大規模な古墳が消えてしまったのか。百舌大山古墳も誉田古墳も、あるいは河内や大和にある巨大古墳群も、みんな現存しているのに。それなら、どうして大阪城古墳は残っていないのか。残っていないということは、存在しなかったのではないか」という問いです。

一言で答えてしまえば「あった場所が悪かった」というしかないと思います。

「上町台地ものがたり」のページでも書いていますが、元来、この辺りは上町台地が海に突きだした半島状になっていました。現在の大阪平野は河内湖を中心とした湖沼地帯であったし、現在の大坂市街の中心地は、まだほとんどが海か、陸地であったとしても葦が生える砂州地帯だったわけです。従って古代の都市としては、難波京跡から四天王寺、住之江にかけて上町台地上に発達していたと考えられます。それと古代には、古墳はもっと身近な存在として捉えられていたとも考えられます。大規模な古墳群があった地域は、そのまま古代の大規模な集落や「クニ」があった跡が見受けられるからです。

たとえば奈良の山辺の道に沿ってある柳本古墳群は、そのまま三輪王朝の本拠地そのものと考えられるし、二上山・葛城山の麓の葛城古墳群はそのまま、葛城王朝の本拠地そのものです。これは飛鳥地方でも同様です。つまり古代人は自分たちが住んでいるすぐ隣に、自分たちの首長や権力者の墓を作ったわけですね。

このころは、どの有力な勢力も山際を本拠地として出てきています。前述の上町台地でもわかる通り、現在の平野部が湿地帯で居住に適していなかったからでしょう。これは河内でも大和でも同じです。大和平野(奈良盆地)もかつては湿地帯でしたので、大規模な「クニ」はすべからく山間の扇状地を本拠としていました。

それを如実に物語るのが「大和」という名称でしょう。この「ヤマト」は文字(音?)どおり書けば「山」の「戸」に他ならないからです。これは山間部への入り口を表す一般名詞だったと思われます。
九州にはしかも、「山門」と書いて「ヤマト」と発音する地名もあります。同様に、海への入り口となる場所の地名は、「水」の「戸」、つまり「ミナト」と呼ばれるわけです。

ところが、弥生〜古墳〜大和時代と遡るにつれて、人口密度が上がる、土木技術が発達し治水や農地開発が進んでくる、といった状況になるにつれ、「クニ」のあり方も山際から平野部に移動するようになりました。つまり、それまで民家密集地に隣接してあった古墳群は、民家密集地が平野に移動した後も、そのまま山と平野の境界に取り残されたような状態となってしまったのです。翻って「大阪城古墳」周辺はどうであったか。

ここら辺りはむしろ、上町台地西側の陸地が増え、さらに河内湖が乾くに従って、むしろ大規模な都市を築くのに便利な環境となってきたわけです。


■立地至便ゆえの悲劇

さて、中世になって武士が台頭すると各地に城を築くようになります。当初はそれほど大規模なものではなく、ほとんど砦といっていいものだったと思われます。
ここで大いに活用されたのが、先にも述べた通り、古墳だったわけです。古墳は平野と山間部のちょうど境界に立地しています。しかも、古代人の集落(つまり古墳群のある場所)は交通の要所にある場合が多い。それは中世の武士にとっても同じです。交通の要所を抑えるのは戦略の要中の要。しかも古墳は尾根筋にさらに小高く盛り土をして作られている。モノによっては堀まで掘られている。これほど砦・城に適したものは、他にありません。

ところが、ここでも古代と同じようなことが起こったのです。室町〜戦国〜安土桃山と時代が遡るに連れて、城の概念も大きく異なってきたからです。
当初は戦略的・戦術的(主に防御施設として)な理由で山城が主流だったものが、平山城、平城と変遷したのです。特に織田信長以降、城は単なる防御施設ではなくなり、政治政策の中心地として、また商工業の中心地として、物流の中心地としての機能を持つようになり、人と金と物が集積する地、つまり城下町を付属するようになりました。そうなると城は、山際よりも平野部のど真ん中の方へと作られるようになったのです。

再び古墳は、人々には縁遠い存在となり、以前のように山際に取り残された格好となったのです。しかし、今にして思えば取り残された古墳の方が幸せだったといえましょう。とにかく現代まで残ったのですから。しかし、大阪城古墳は立地がよすぎた。古代より海の玄関口として機能していましたし、それは物流拠点として欠かせない要素でした。

さらにいえば、中世においては南隣の堺の方が都市としての力を持っていたことが、かえって大坂を発展させる結果となったといえるでしょう。中世からの堺の勢力がかえって、近世の権力者(信長、秀吉)にとっては面倒な存在であっただろうことは、想像に難くない。近世の秩序に応じた、新しい商工都市を建設するなら、すでに発展しきっていない土地の方が都合がいいからです。
それに京都にも近いという立地条件。淀川を利用すれば比較的たやすく往来できます。モロに近すぎて朝廷や旧勢力から干渉されるのはうっとおしい、しかし離れすぎると影響力を行使できない・・・、大坂はちょうどいい距離にあったといえるでしょう。

このような近世的な都市として発展途上にあった大坂において、大阪城古墳はまさに、バブル景気華やかなりし頃の地上げを喰らった土地のように、大阪城の下に封じ込まれてしまったのです。



■巨大すぎるゆえの悲劇

それでもなおかつ、次のような疑問を持たれるかもしれません。「しかし、日本でも指折りの巨大古墳というのに、そんなものが本当に消滅してしまえるのだろうか?」「破壊するにしても、巨大すぎるのでは?」。では、そんなご質問に答えていきましょう。

大阪市内にも、たまに塚のような史跡を見ることがあります。たとえば松虫塚や酒君塚のような。これらも小規模ですが古墳なのです。これらはビルや家並みに囲まれながらも、それなりに地元の人々から土着的な信仰を集めて存在し続けているのです。

このような小規模な古墳(というより塚)は、むしろ小さいがゆえに、人々から邪険にもされず、人間と共存してきたといえるでしょう。

しかし、生活をしていく人間にとって、むしろ無視できないほどものといえば・・・。

私が生まれた奈良県に、見瀬丸山古墳という巨大な前方後円墳があります。墳長318メートル。奈良県で最大、全国でも第6位という大きさです。

この見瀬丸山古墳、欽明天皇陵ではないかと考えられ、今でこそ全体が保護されていますが、かつては後円部の墳頂の一部を除いて、ほとんどが畑として耕されていたのです。そればかりではありません。前方の一部が、国道169号線によって削られているのです。国道が、ですよ。

要するに、かつてこの古墳は後円の頂上部だけが円墳であると考えられており、その一部が保護されていただけで、全く後の部分はしたい放題にされていたわけです。巨大すぎるから、破壊されることもあるのです。



■あなたの足下にも、古墳が・・・

「縄張り」というのは元々、城の各曲輪や丸の配置をいうのですが、現在わかっている「縄張り」から、「大阪城古墳」のあった場所を考えてみましょう。

考えてみれば、誰もがわかるような巨大な古墳だから、後生まで史跡として残っていく、というのは現代の見方でしかないのです。大きすぎてジャマな存在なら、破壊する。そんな態度がかつてあってもなんら不思議ではないわけですね。

ひょっとすると、そうやって破壊された巨大古墳は山ほどあったのかもしれません。仁徳天皇陵といわれる百舌大山古墳や応神天皇陵といわれる誉田古墳などは、ラッキーだっただけかもしれないのです。

人間は文明と引き替えに、多くの自然や古代の史跡を破壊してきました。我々の今というのは、そのような犠牲にのみ上に成り立つのだ、とシニカルにいうこともできるでしょう。また、そのことを知らねばならないのです。

ほら、よく見て下さい。あなたが今住んでいるその場所に、一体何があったのか。ひょっとすると古代の巨大古墳かもしれないし、多くの人が流した血の河かもしれない。

一体、何なんでしょうか・・・・・・

     
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