地図で「さんぽ」する:大阪城は、巨大前方後円墳の上に建っている!?(前編)

>>さんぽ人の地図論トップへ
CONTENTS
 

■大阪城の地形を見ると

「大阪」のシンボルといえば、「ずぼらや」のフグから吉本興業まで数あれど、やはり最右翼なのは「錦城」こと大阪城でしょう。そして、この大阪城を作った太閤秀吉は、大阪では今でも根強い人気がある。

しかし、ご存じの方も多いと思いますが、今我々が見ている大阪城は、太閤さんが作ったものではありません。江戸時代になって、徳川政権が秀吉時代の大阪城をぶっ壊し、その上を埋めて新たに作ったものです。

ついでに言っておくと、今平成の大改修を行っている天守閣は、昭和初期に鉄筋コンクリートで再建されたもので、つまりは、秀吉が作ったものでも徳川が作ったものでもない。何を隠そう大林組が建てたものです。

それでも大阪城は、現代に生きる私たちにとっても、この街のシンボルには変わりありません。そして、コンクリートに囲まれたこの街の中で、憩いの場として重要な位置を占めているのです。

さて、何人かの学者さん達も指摘されていますが、大阪のシンボル、大阪城が巨大な前方後円墳の上に立てられている可能性があるのです。私も、そうじゃないかなと思っています。

むろん学術書を調べれば、いろいろ詳しい論なども書いてあるのでしょうが、そんなもの読むのも面倒くさいので、ここでは私が、学術的な論証全く抜きで、好き勝手にいわせていただきます。


■無責任論証1:名前がそう思わせる

まず、豊臣秀吉が大阪城を築く以前には、ここには石山本願寺がありました。寺といっても、ほとんど城塞都市のようなもので、非常に防御が堅固だったようです。この石山本願寺を攻略したのが織田信長ですが、さすがの信長も、この堅牢な城塞都市を落とすのは手こずったようで、11年(もちろん断続的にですが)かかっても落城できなかったわけです(石山合戦。最終的には朝廷の調停で、本願寺勢はここを明け渡した)。

信長がもし本能寺で死ななければ、この地を日本統一の新しい拠点としていたことは明らかで、そのビジョンをまるまる受け継いだのが秀吉だったわけです。

さて、気になるのは「石山」という名前です。暴論になるかもしれませんが、地名の付け方なんて、案外単純なものです。それで考えると、「石山」という地名は、たぶん石の多い小山(丘陵)だったのでしょう。では、なぜ石が多かったのか。

私は、この石を古墳を覆う葺き石ではなかったか、と考えます。古墳というと、みなさん鬱蒼とした木々を思い浮かばれるでしょうが、元来はタイルのような石に覆われた存在なのです。それが大した手入れも行われず長年放っておかれたために、現在見られるような、木が生い茂る小山になってしまったわけです。

私は奈良生まれで歴史とか好きだったので、中学生の頃から県内のあちこちに自転車とかで行っては、古墳とか寺とか見て回っていたのですが、一度だけ、山辺の道のそばの古墳の墳頂まで登ったことがあります(誤解しないでください。立入禁止の所に非合法に入ったのではなくて、奈良にはまだ上まで登れる古墳が残っているのです)が、その時、木々や雑草に埋もれて葺き石のかけらのようなものが、まだ今もなお残っているのを見ました。

ましてや石山本願寺が建てられたのは15世紀の末、今から500年も前のことなです。

というわけで、「石山」は葺き石が語源である、とここでは断言しておきましょう(違う違う、「石山」にはちゃんとした由来があるんだ、とご存じの方、ぜひお教えください)。



■無責任論証2:形がそう思わせる

次に大阪城のレイアウトについてです。今、私たちが見ることのできる大阪城は、徳川政権が秀吉大阪城を壊し、埋めて、新たに作りなおしたものです。従って秀吉大阪城についてはまだまだ謎の部分が多いのですが、残された古資料によって、ある程度はわかります。

代表的な資料としては、秀吉大阪城建設の時に書き残された本丸図です。棟梁を勤めた中井家が代々保存されていたものです(左図。ただしこの図は、本物をここで掲載したらいろいろ問題があるかもしれないので、多根井が模写しました)。

お手元に大阪の地図があるなら、現在の大阪城本丸と比べていただきたいのですが、現在に比べ非常に曲線を描く形をしているのがわかるでしょう。

ズバリ、この曲線状は前方後円墳の後円部をそのまま生かしたものだからではないでしょうか。つまり、古墳の堀をそのまま城塞の堀に活用したのではないでしょうか。

古墳を城塞に転用する、という発想は別段、突飛な発想ではありません。むしろどこでも見られた光景です。

たとえば古市古墳群の首座である誉田山古墳(応神天皇陵と呼ばれている)は室町から戦国時代にかけて城として使われていたし、日本で初めて天守閣を持った城という説もある、松永久秀が築いた奈良の多聞城は、隣接する聖武天皇陵を城の一部として活用していました。また、津堂城山古墳(藤井寺市)、今城塚古墳(高槻市。継体天皇陵という説もある)など、そのものズバリの名を持つ古墳もあります。

従って大阪城が古墳であっても、少しもおかしくはないのです(何か凄い論理の飛躍やなあ、と、自分でツッコンでおきます)。



■無責任論証3:縄張りがそう思わせる

「縄張り」というのは元々、城の各曲輪や丸の配置をいうのですが、現在わかっている「縄張り」から、「大阪城古墳」のあった場所を考えてみましょう。

 

(図1)は、現在の、徳川氏が作った大阪城の本丸に、秀吉時代の本丸を私の推定で重ねてみたものです。南西方面に張り出した空堀あたりに、秀吉時代の名残が感じられます。

徳川政権は、秀吉時代の名残を払拭するために、かなり盛り土をして土中深く、秀吉大阪城を埋め込んでしっていますが、これを見ると、そう根本的に縄張りの形状が変更されているとも思えません。これは全体的な地形のためでもあるのでしょうが。従って本丸以外の、二の丸であるとか外堀の形状も、深さや幅などは異なるかもしれませんが、秀吉時代とそうは変わりがないのではないかと考えます。

(図2)は、(図1)の上に、前方後円墳を重ねてみたもの。秀吉大阪城本丸の北西部、ちょうど曲線状になっている部分を、後円部にあてはめてみました。
これを見ると、前方部の「裾の広がり」がちょうど、二の丸市正曲輪にかかっています。市正曲輪は現在、梅林公園となっている所です。この曲輪は「三角形」の地形になっていのですが、その理由も古墳前方部の裾の広がりに対応したものであったのではないか、と思えます。

これから推定すると、「大阪城古墳」は後円部を北西方面に向けて横たわっていたと考えられます。前方後円墳の向きは法則性があるようで、実はあまりない(もっとも、ある法則に従って配置されている、と主張する人も多く、それらの中には説得力を持つ説もあるようですが)。古市古墳群の中には、隣接した古墳が、全く逆向きである、というケースもあります(たとえば応神天皇陵と仲哀天皇陵)。
もちろん、北西向きの古墳もあります(津堂城山古墳など)。主に古墳の向きは、築造する場所の地形に左右されると考えた方がよいでしょう。

前方後円墳は、丘陵や山の尾根を利用して作られることが多いのですが、後円部の方が標高が高いので、しばしば尾根の高い方に作られます。「大阪城古墳」がある上町台地は、北西側が標高が高く、南南東方面に向かって緩やかな斜面を描いているので、後円部を北西に向ける配置は、理にかなっているといえましょう。



■「大阪城古墳」の大きさは

前述の推定図をもとに算出すれば、墳長はだいたい300〜400メートル。これはかなりの大きさになります。「歴史読本86年3月号/臨時増刊・古代天皇と巨大古墳の謎」に掲載されている「巨大古墳一覧表」では、だいたい2位(何と!)〜8位にあたり。具体的な現存古墳でいえば、約400メートル級とすれば誉田山古墳(応神天皇陵)に。約300メートル級としても渋谷向山古墳(景行天皇陵)という、日本を代表する「超」古代古墳に匹敵します。もちろん、大阪市内最大の古墳となります(現存する大阪市内最大の古墳は、帝塚山古墳で、墳長約150メートルですから、その倍以上か!ちなみに日本最大の仁徳天皇陵こと百舌大山古墳は486メートル)。

元来、泉北丘陵から上町台地にかけては、古墳の多い地帯です。代表的なのは、百舌古墳群。その延長線上にある瓜生野、阿倍野にかけても古墳が多い。天王寺の茶臼山は古墳かどうか確認できないとしても、前述の帝塚山古墳(この周囲には他にも多数の古墳があったことが確認されています)。さらに聖天山古墳、松虫塚、さらに御勝山古墳・・・。
上町台地の最先端部に、これら古墳群の首座となる大規模前方後円墳があったとしても、別段、不思議でもなんでもないのです。

>>大阪城は、巨大前方後円墳の上に建っている!?(後編)を読む

     
    (C) 1996-2003 Takashi Tanei, office MAY