さんぽ人の「地図論」・序説
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■なぜ、地図は楽しいのか

 地図は、その人の世界観の具象化である−−いきなり大袈裟な言葉から始まってしまったが、本当にそう思う。「そんなアホな、地図って地形を忠実に描いただけやろう!」という声もあるだろう。確かに、紙面に「地形を忠実に再現」することが、地図のひとつの信頼性、価値を表わしてるし、その点を大前提にして作られ、販売されてもいる。

 だが、あえていいた。「地図は、その人の世界観の具象化」であると。

 例えば、あなたが自宅から最寄り駅までの地図を描いたとしよう。上手な人も下手な人もいるだろう。しかし、どちらにしても共通していえることは、地図や測量を専門にしている人でもない限り、我々に「地形を忠実に再現」することなど、無理である、ということだ。誤解しないでいただきたいが、「忠実に再現」できないからダメだ、といっているのではない。「忠実に再現」できないからこそ、そこに「人」の世界観、くだけていうなら、世の中をとらえる視点が盛り込まれるのである。ここにこそ、「地図の楽しさ」があるのだ。

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■省略によって成り立つメディア

 さんぽ人には、95年4月に生まれた娘がいる。まだ3才にも満たない(98年1月現在)ので、とても地図など描けないが、もし仮に地図を描いたとしたら、どんな地図になるだろう。
 彼女が大好きな近所の公園がある。我々大人にとっては、どうということもない、どこにでもある、さして広くもない児童公園だが、彼女の地図では、ひょっとすると、とてつもなく広い公園として描かれるかもしれない。

 よく吠える犬がいる路地。ほんの数十メートルの路地が、ひょっとすると、延々と続く怖い道として描かれるかもしれない。

 マンションの友達が通う幼稚園。一緒に行きたくて行きたくてしかたがない幼稚園は、彼女の足ならゆうに10分はかかる距離だが、ひょっとすると、飛んででも行ける近い距離として描かれるかもしれない。 「これは、現実がわからん子供の世界だから」というかもしれない。でも、果たしてそうだろうか。我々、充分世の中を知った(?)大人だって、基本は変わらないのではないか。

 先に、地図のことを「地形を忠実に再現」する、といったが、正確にはいえば、地図で表わされるのは「地形」だけではない。そう、この世界には、地形だけが存在するのではなく、その上に生きる人間の「社会」があるからだ。地図は、その「社会」を記号化して描きだそうとする。しかし「社会」のありとあらゆる有り様までを「忠実に再現」できる地図など、不可能である。地図は、そういう点でいえば、「省略して成り立つメディア」なのである。

 つまり実際の「社会」から、何を省略し何を残して描くのか、が地図にとっては大きなポイントとなる。それは極論すれば、幼児が自分の大好きな公園を、とてつもなく広く描くことと、本質的には何ら変わらない。なぜなら、「省略」することの本質とは、不要なものを取り除くことにあるのではなく、残されたものを強調することにあると思うからだ。

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■あなたは、何を省略し、何を強調しますか?

 さて、ここでもう一度お願いしたい。あなたの自宅から最寄りの駅までの地図を描いてみてほしい。あなたは何を省略し、何を残したのか。それがまさに、あなたの「世界観」である、といえば大袈裟だろうか。
 ところで「世界観」とは何だろう。結局は、世の中を、どんな角度から、どんな視点から見るか、ということに他ならない。で、あなたはあなたの「世界観」がどんなものか、自分でわかっていますか?

 例えば、ミナミの地図を描く。酒の好きな私の地図には、目印として描かれるのは飲み屋ばかりになってしまうだろう。映画好きなら、映画館がいっぱい描き込まれた地図が出来上がるはずだ。ある人は、交番や消防署を描き込むかもしれないし、また、ある人は、道以外に何も描き込まないかもしれない。

 「省略」された地図であればあるほど、残された場所が雄弁に、描いた人そのものを物語る。紙の上に「記号」として等質に描かれるからこそ、その裏にある「思い」が、大きなボリュームで聞こえてくるのである。さて、あなたは何を省略し、何を強調しただろうか?

 ひところ、「自分探し」や「アイデンティティ」という言葉が、マスコミなどで取り上げられたことがあった。流行的に、あれやこれやと取り上げることが正しいことばかりだとは思わないけれど、人間が人間として生きていく上では、やはり「自分探し」や「アイデンティティ」というものは不可欠な要素である。

 服装や嗜好によって性格判断するといった特集は、今もって雑誌などで時々取り上げられているから、ニーズもあるのだろう。

 「自分で描いた地図で、あなたの性格判断を」などど、能天気なことをいうつもりは、さらさらないけど、改めて自分の地図をじっくり眺めてみる、ということは、ちょっとしたいい機会になるのではないだろうか。「性格判断」などという、他人の評価をアテにするのではなく、自分を振り返る、という意味において。


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■「見る」ことから始まる「自分の世界」の構築

 そして、それは何も、わざわざ地図を描く、という行為だけに含まれているものではない。書店で売られている地図を見る(読む?)という行為の中にも含まれている。

 書店で売られている地図には、どんな地図であろうが、何かが省略されているのであり、あるいは、見る人にとっては余分な情報が描かれてもいる。我々は知らないうちに、足りない情報は頭の中で補充し、余分な情報は切り捨てているはずだ。

 友人の家まで車で行く時に道路地図を利用したとして、その道路地図にはまず、友人の家など記入されていまい。あるいは、自分の直筆で、「○○の家」とか書き込まれてカスタマイズされているかもしれない。

 そして、友人の家まで国道一本で行けるなら、それ以外の枝道は、情報としては無駄だといえるかもしれない(交差点を目印にする、という時には有用となるが)。地図を利用する、と決めた瞬間から、地図は見る人にカスタマイズされるのである。

 さんぽ人は、いうまでもなく、さんぽが趣味である。さんぽのための地図を持っている。そこには、数々の書き込みがある。その日行ったコースであり、目印であり、友人の家であり、道中で見つけた美味い居酒屋であり…。

 それは、さんぽ人の、その時その時の「世界」を描いたものに他ならず、時間軸を明確にさえすれば、立派な「履歴書」として機能するものではないか、とさえ思う。

 地図を見て、活用することが、もう「自分の世界」を構築することの第一歩となっているのであり、自分の「世界観」を考えてみる端緒となるのだ、ということがよくわかる。それが「地図」の面白さだと思う。


   
(C) 1996-2003 Takashi Tanei, office MAY