阿倍野は「島」だったのか?
〜「阿倍の島考」衛藤兵衛・近代文藝社より


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CONTENTS
 

■一冊の本より

阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ

 万葉集に載っている、山部赤人の和歌だそうである。私は和歌などたしなむような人間ではないから、恥ずかしながら初めて知った次第だ。で、問題は、ここに詠われている「阿倍の島(阿倍乃嶋)」のことなのだが、従来、この「島」については所在地不明だとか、あるいは播磨国の海岸にある小島のことだとかいわれていたらしい。

 それに対して私は、元来、何を言う資格も持っていないのだが、非常に興味のある本を見つけたので、この場を借りて、ちょっと「阿倍乃嶋」について考えてみたい。

 その本とは、衛藤兵衛さんという大学の先生が書かれた「阿倍の島考」という著作物である。たまたま荒本の府立中央図書館に行った時、見つけた本である。

 この著作の中で、衛藤さんは、「阿倍乃嶋とは、まさに現在の阿倍野区の一部のことで、古代、ここは島だった」という説を書いておられるのだ。

 「阿倍野がかつて島だった」なんていう主張は、実に刺激的で面白い。夢中になって読んでしまった。やはり、図書館には行かんとアカンなぁ。

 筆者の言う「阿倍乃島」は、おおよそ、北はJR環状線、南は相生通あたり、西は阿倍野区と西成区の境界、ちょうど断層状になっている線。そして東は、あべの筋。これらに囲まれた場所が、島だったとする。

 実際、今の大阪平野がかつては「河内湾」または「河内湖」であり、現在の上町台地が、大阪湾と河内湾に挟まれた半島であったことは、すでに知られている。私も、この「さんぽガイド」「よもやま話」の中の「上町台地ものがたり」で紹介している。

 ただ、「半島」であることと「島」であることは大きく違う。上町台地(かつての上町半島)が、途中で切れているということになるからだ。しかし、もし本当に「島」だったら、これこそ大きな夢を、古代に描くことができる。そういった意味で、「刺激的で面白い」と思った次第だ。


●ちなみに、大阪平野の成り立ちを見ておこう。




■明治時代の地図で検証

 では本当に、島だったのか? 私自身の考えを述べておこう。ハッキリ言って、まだ「島」だといえる論拠に乏しいと思う。

 理由その1。

 衛藤さんはもっぱら、万葉集での和歌や古文献での記述を元に、現在と上町台地の状況を比べ、詠まれた風景との近似性を挙げている。しかし歌中の記述では、誇張もあれば詩的表現もあり、そのまま忠実な風景模写とは思えない。さらに、その中の風景と現在の風景とを比べることには、大きな無理がある。

 理由その2。

 上町台地から西が海岸線であったとすることを各種文献から導き出し、阿倍野が島であったことの論拠のひとつとされているが、この台地西側の断層線が海岸線であるということは、島であることの証明には、決してならない。なぜなら、これは島でも半島でも成り立つからだ。当然だが、「島」と主張するためには、四方が海もしくは湖か川に囲まれていなければ立証になはらない。

 理由その3。

 地理的あるいは地学的考察が少ない。触れられているのは、阿倍乃野嶋と衛藤さんが推定されている地点と、その南方の住吉台地とが、異なった地質である、という記述だが、地続きでも異なった地質が隣同士にあるケース(内陸部など)もあれば、島として海で隔てられていても、同じ地質のこともある(と思う。地質学に詳しい方、ご教示を。間違っていたら訂正します)。

 では、私ができる範囲で、地理的な考察を加えてきたい。

 現代は、海や池を埋め立てたり、丘を削ったりして、国土をいろいろ変えてしまっているが、それでも、地形の在り方から古代の様子を推察することはできるだろう。ましてやそれが明治時代なら、地形はもっと近いといえるのではないか?

 下図は、明治18年の地図をもとに、私が等高線をトレースしたものである(薄いブルーやグレー、グリーンで書き込んでいるもが、現在の鉄道や主な道路である。但し、濃いブルーで描いた川や池については、地形の考察上、明治時代のものをトレースしている。なお、茶臼山辺りで等高線が消えているのは、市街地に入り、等高線が追跡できなくなったためだ)。

 衛藤さんの主張通り、阿倍野を島だとすると、この島の最高地点は、阿倍野墓地の東方、現在の王子町の辺りで、海抜17.8メートルである。で、この近辺が島として成り立つ等高線を考えると、海抜15メートルのラインあたりが考えられそうである。

   

  確かに、このラインを汀線とすれば、衛藤さんのおっしゃるように、この辺りは島として成り立つ。ただ、そうするとかなりの土地が水没してしまうことになる。 たとえば、私が住む桑津。この町名から、ここがかつて河内湾に臨む港であったことは確かに想定できるが、しかし、桑津近辺の海抜は5〜8メートルで、海抜15メートルラインが汀線では、町まるごとが水没するのである。
 桑津では、弥生時代の遺跡(桑津小学校に石碑が建っている)が出土している、つまり弥生時代には人が住める土地であったことを物語るが、これをどうするのか。

 仮に、桑津を水没させないとするなら、海抜7.5〜5メートルのラインまで海岸線を下げねばならない。そうすると、「阿倍乃嶋」は、四天王寺方面の上町台地と完全にくっついてしまい、島とはいえなくなってしまう。

 というより、これはまさに、先に図説した「上町半島」そのものである。どうやら、上町半島は、明治18年地図の海抜5メートル程度を、汀線と考えてよさそうだ。

 四天王寺近辺の海抜は約10メートル前後で、上町台地はここから北に向かって、また標高をゆるやかに上げて行く。最高峰は大阪城の辺りで、海抜25メートル程度だったと思う。

 また、衛藤さんは、島の北海岸線を、現在のJR環状線にあてておられる。確かに、現在、たとえば阿倍野橋に立ってJRの線路を見下ろせば、結構、深い地形になっており、ここがかつて海や川であってもおかしくないように思える。

 しかし、先の地図を見ればわかるが、環状線の線路を挟んだ南北で、等高線は完全に連続しており、どう考えても自然の窪んだ地形とはいいがたい。人工的なのだ。

 仮に、ここを和気清麻呂が掘った”大道”の跡であり、この水路のために島になったとしても、それでは時代が合わない。

 山部赤人は生没年未詳ではあるが、活躍したのは、だいたい聖武天皇の治下、西暦720〜30年代とされる。そして和気清麻呂が生まれたのは733年といわれており、常識的に考えれば、赤人が”大道”を見て詠う可能性は低いといわざるをえない。


■「阿倍乃嶋」は阿倍野ではないのか?

 衛藤さんには申し訳ないが、かなり否定的なことばかり書いてしまった。しかし、それは私が衛藤さんの推論を全否定している、ということではない。

 衛藤さんの主張を整理してみると、次の2点になるだろう。

 (1)万葉集で詠われる「阿倍乃嶋」とは、場所未詳でもなければ、播磨沿岸の小島でもない。まぎれもなく現在の大阪市の阿倍野である。

 (2)大阪の阿倍野のことが「嶋」として表現されているということは、阿倍野はかつて「嶋」であった。

 以上の2点だ。

 いうまでもなく、先に私が「論拠が乏しい」といったのは、あくまで(2)の点についてである。衛藤さんがお書きの通り、「阿倍乃嶋」の候補の中に大阪の阿倍野が挙げられながら、未だに場所が未詳とされる一番の理由は「嶋」と表現されているからであろう。

 衛藤さんが、「阿倍乃嶋」を阿倍野とする根拠は、赤人の歌そのものにある。

 「阿倍乃嶋」が出てくる歌は、赤人の六首の群歌のひとつとしてあるわけだが、この六首の万葉集での掲載順と、歌に詠まれた地名を追ってみると・・・

 (357)縄の浦・・・・A:難波の浦、B:赤穂郡那波村の入り江(現、相生市)
 (358)武庫の浦・・・・武庫川の河口
 (359)問題の「阿倍乃嶋」
 (360)地名の記述なし
 (361)佐農の岡・・・A:紀伊の三輪が崎近く、B:泉佐野市山際の岡

 推定地は、従来の万葉集注釈などで述べられている地名である。

 なお上記の歌のうち、(357)〜(359)までは赤人自身がその地に居て、風景を見て詠んだ歌であり、(360)は、大和に残した妻を偲んで詠った歌であり、(361)は、「佐農の岡」辺りを旅しているであろう、船旅で出会った人を思って詠んだ歌である。

 衛藤さんはこれらの群歌を「赤穂→武庫→阿倍野」と、瀬戸内から大阪湾まで旅を続けながら詠み継いだシリーズものであるとする。

 そう考えると、旅程から「阿倍乃嶋」は阿倍野という可能性が高くなる。

 さらに衛藤さんが目を付けたのは、阿倍乃嶋が出てくる歌の後半「大和し思ほゆ」というフレーズである。推定通りのコースで赤人が旅をしていたとすると、「阿倍野」こそ、赤人の故郷である大和の入り口である。最も故郷に近づいた時点で、赤人は望郷の歌を詠んだ・・・「ああ、阿倍野かぁ・・・いよいよ大和が近いなぁ。そういえば、このごろしきりに、故郷のことが偲ばれるなぁ。早く帰りたいなぁ、ああ・・」てな感じでしょうか。次の(360)の歌(妻を思う歌)との繋がりも、極めて自然に感じられる。そして、大和への帰途で、船旅で一緒になった人を思い出す。つまり旅の思い出の反芻だ。「阿倍野で船を降りて、右左に別れたあの人。阿倍野からさらに南に向かって行ったなぁ。もう泉州辺りを行っているのだろうか」と・・・。

 実に納得できる推論ではないか。科学的な意味での納得ではないが、心情的には凄く納得できる(できませんか?)

 小旅行から帰ってきた時とか、久々に帰郷した時とか、電車や飛行機に乗っていて、窓から見慣れた風景が見えてくると、「ああ、やっと帰ってきたなぁ。もうすぐ家だなぁ」なんて感慨にとらわれたりするものである。「遠くにあって想う」だけが故郷ではない。故郷までもうすぐの所に差し掛かったからこそ、望郷の念が強くなる場合もあるのだ。

 以上の点を考えれば、私は衛藤さんの説に大賛成なのである。やはり「阿倍乃嶋」は阿倍野であってほしい。



■「嶋」であるということ


 では、いったい、どうこの問題を捉えたらいいのか。

 先に私は、「島と主張するためには、四方が海もしくは湖か川に囲まれていなければ立証になはらない」と述べた。自分で書きながら言うのもヘンな話だが、本当にそうなのか?

 全く答えにはなっていないが、戦国時代の有名な合戦に「川中島の戦い」というのがある。「川中島」・・・あそこは、確かに犀川と千曲川の合流地点ではあるけれど、島ではないと思う。私のオヤジの故郷である明日香村には、「島の庄」という地名がある(石舞台古墳などがある所)が、まぁ、あそこも「島」ではない。そういえば、信州松本から上高地に入る入り口に、「島々」という駅があったような気もするが。

 暴論になるが、「島」だから文字どおりの「島= island」と考えなくてもいいのではないか。信州の川中島と明日香村の島の庄に共通するのは、川の合流点であることだ。地形的なものを考え、川を海に置き換えてみると、それはまさしく半島ということではないか(サンプル数2で決め付けるなんて、私もあんまりだなぁ)。

 「半島」は「半分、島」ということで、まぁ「島みたいなもの」という感じだったのかもしれない(いいのか、そんなこと言って!?)。で、無責任にそんなことを言ってから、先の等高線を加えた地図を見てみると・・・現在、聖天山がある辺りが、非常に入り組んでいて、上町台地から突き出した、小さな半島状になっていることがわかる。リアス式なんていうと、大袈裟だが、入り組んだ海岸が、海に突き出した半島を島に見せることだってありうるだろう。あるいは、そんな光景を、詩的に「島」と詠んだのかもしれない。

 もうひとつ、無責任な考えが私にはある。三重県に「志摩」があるが、この「シマ」は「島」のことなのではないか。それは、あの地が、リアス式海岸の多島海であることを表していると思う。

 つまり「島」とは、何か一つの「島」を指してそう呼ぶ時もあれば、たくさんの小島が集まっているところの総称として、「島」を用いたかもしれない。

 淀川河口の街である大阪は、葦の生えた砂州状の「小島」のようなものがいっぱいあったという。阿倍野近辺は河口ではないので、このような砂州があったがどうかはわからないが、「なかった」とも否定できない。

 そのような小規模な砂州の集合を、「島」として表現することもありえたのではないだろうか(ところで「かもしれない」とか「だろうか」という語尾は便利だなぁ〜。確定できない意見の時は、こう言って誤魔化す。私が、この「さんぽガイド」で、断定できない事象については、たいがい「かもしれない」「だろうか」という語尾になってますから。ずるいですね〜)。

 冗談はさておき、もしそうだとすると、阿倍野の海岸縁にあった、砂州のような小さな島々を見て、「阿倍乃嶋」と詠んだのかもしれない。その砂州に生息する鵜・・・。

 というわけで、文字通り「嶋」にこだわらなくてもよいのではないだろうか。ほら、昔「東京砂漠」って歌、ありましたけど、東京に砂漠なんて、本当にはないでしょう?---っていうオチャラケの結論じゃぁ、マズイですよね。反省します・・・。


(1997年12月)

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